高保融
高 保融(こう ほゆう)は十国荊南の第3代王。文献王高従誨の三男。
貞懿王 高保融 | |
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荊南 | |
第3代王 | |
王朝 | 荊南 |
在位期間 |
乾祐元年10月28日 - 建隆元年8月27日 (948年12月1日 - 960年9月20日) |
都城 | 江陵 |
姓・諱 | 高保融 |
字 | 徳長 |
諡号 | 貞懿王 |
生年 | 貞明6年(920年) |
没年 |
建隆元年8月27日 (960年9月20日) |
父 | 文献王 |
生涯
編集乾祐元年(948年)、高従誨が死去すると、南平王の爵位を継ぎ、後漢の隠帝より荊南節度使同平章事兼侍中に封じられた。そして広順元年(951年)には後周の太祖より渤海王に、顕徳元年(954年)には南平王に封じられた。
史書によれば高保融は凡庸であり、朝政の重大事は全て十弟の高保勗に委ねていた。趙匡胤が宋を建国した建隆元年(960年)には、その国勢を恐れ1年に3度も朝貢の使者を派遣している。同年41歳で病没すると、太尉と貞懿王の諡号を贈られた。長男の高継沖と次男の高継充が幼少であったため、高保勗がその地位を継承した。