骨壺墓地文化
骨壺墓地文化(英: Urnfield culture)は後期青銅器時代(紀元前1300年ごろから紀元前700年ごろ)の、温帯ヨーロッパの一帯における主要文化。ドイツ語でウルネンフェルト文化、英語でアーンフィールド文化とも呼ばれる。
遺体を火葬し、遺灰を骨壺に収め、天板や特別に意匠を施された蓋で骨壺を閉じ、武器や装飾品と一緒に墓所に埋葬する習慣がある。「骨壺墓地文化」という名称は、こういった墓地の形態に由来する。
丘や断崖の上、島、湖畔、などといった場所に、防御措置の施された集落を形成する。刀、カミソリ、ナイフ、鎌、針、兜、鎧、盾、容器などを青銅で作る。
この文化は複数の地方文化に分かれている。そのうち最も重要なのはルサチア・グループ(ないしルサチア文化と呼ばれる文化集団)で、ポーランド、ドイツ東部、チェコ、スロバキア、ウクライナ西部を占めている。ルサチア・グループは、プロト・スラヴ人の文化のひとつとみなされる トシュチニェツ文化の後継文化である[1]。
インド・ヨーロッパ語族の中央ヨーロッパからヨーロッパ辺縁部へ向かっての拡大移動の多くの場合が、ヨーロッパの広い範囲で骨壺墓地文化の墓地形態が広まっていったことにより起こったと解釈されている[2]。たとえば骨壺墓地文化は西方ではのちにハルシュタット文化やラ・テーヌ文化が発生・拡大する地域に広まっているが、これはプロト・ケルト人[3]に相当するであろうと推定される。特にイベリア半島におけるケルト人の出現に関してはこの見解は重要である。というのも、ハルシュタット文化やラ・テーヌ文化はイベリア半島には到達しなかったいっぽう、当地にはその前の時代の骨壺墓地文化との接触の痕跡は存在するため。ただし、当地の骨壺墓地文化の遺跡がどれも必ずケルト人のものであるとは限らない[4]。イタリアに発展したヴィラノヴァ文化(Villanovan culture)の発展やその後の後期青銅器時代の文化的発展も骨壺墓地文化の人々の北方からの移住によるものか、あるいは単にこの文化の南方への普及によるものであることが考えられ、ここの言語はケルト語派あるいはイタリック語派の言語(ないしウェネティ語)[5]であろうとされている。中央ヨーロッパ東部では、イリュリア人との関係が考えられている。ポーランドがスラヴ人の主要な源郷のひとつであったろうと推測する研究者たちは、ルサチア文化の担い手はプロト・スラヴ人諸集団のうちのこの地における地方集団だったのではないかと考えている[1][6]。
脚注
編集- ^ a b トシュチニェツ文化の記事を参照。ドイツが主導的立場にあった過去のヨーロッパの考古学界では、青銅器時代から鉄器時代への移行期の地方文化であるルサチア文化はゲルマン民族固有の文化であるという排他的見解が定説であった。ここにおいては、ゲルマン民族がこの時代にすでに成立していたという仮定が定着していた。これは、もともと骨壺墓地文化が墳墓文化の後継であることが主な理由であった。いっぽう、ポーランドの考古学界は、文化集団と言語集団はかならずしも同一でないという考えから、ルサチア文化はプロト・スラヴ人のうち西方由来の骨壺墓地文化の要素を広く受け入れた西部集団の文化だったのではないかという意見を提起していた。そして、のちには、プロト・スラヴ語(Proto-Slavic language)の文化であると推定される、ルサチア文化の先駆文化である青銅器時代文化のトシュチニェツ文化が発見される。プロト・スラヴ人は、のちにスラヴ語派を形成する要素となった諸文化の担い手で、現代にスラヴ人と呼ばれる諸民族の言語的・文化的・遺伝的先祖ではあるが、この時代にすでにスラヴ語派という言語集団をはっきりと形成していたとは限らない。したがって、ルサチア文化の言語はプロト・スラヴ語であると同時にプレ・ゲルマン語(Pre-Germanic language)の一部でもあった。ポーランドの考古学界の推測はこの見解に基づいていて、ルサチア文化は単にそういったプロト・スラヴ人諸文化のうちのひとつであっただろうというものである。実際のところ、ゲルマン語派の成立は骨壺墓地文化の後の時代の鉄器時代文化であるヤストルフ文化において、もと北部骨壺墓地文化であった地域(右上図参照)で紀元前5世紀という比較的新しい時代に起こったと推定されている。ルサチア文化の担い手の一部はヴェネト人と呼ばれる集団として、ポーランドから南ヨーロッパや西ヨーロッパへ向かって移動していったと推定されている。また、この地に残った人々のルサチア文化と、その東方の、青銅器時代から鉄器時代へ早期に移行した文化で、北方の森林農耕文化と南方の草原遊牧文化の融合であるチェルノレス文化から西進してきた人々の文化(あるいはさらに、可能性としてはチェルノレス文化の北方の、森林狩猟文化であるミログラード文化も)が融合し、同じこの地に鉄器時代文化のポメラニア文化を発展していったことが、のちの調査で判明している。さらに、ポメラニア文化は、当時はまだ青銅器時代であったスウェーデン東部の青銅器文化との間での交易を通じてスウェーデン東部一帯を鉄器時代へと発展させる一方、地元ポーランドでは、西方のヤストルフ文化の影響を強く受けていた北部はゲルマン系の文化的色彩の強いオクシヴィエ文化へ、残りの地域は東方のザルビンツィ文化と酷似しスラヴ系の文化的色彩が強いプシェヴォルスク文化へと発展している。ポーランドでは現在でもこういった見解がもっとも妥当なものとして考えられている。が、特にドイツの考古学界からは、ポーランドの考古学界の見解はスラヴ帝国主義的であるとしてことごとく批判されていた。現在のドイツでも、ルサチア文化と、その東隣にあったスラヴ語派発展段階の中核文化との関係をまったく否定する人々が多数いる。
- ^ 球状アンフォラ文化、縄目文土器文化、鐘状ビーカー文化、墳墓文化の記事を参照。
- ^ のちにケルト人を形成することになる諸集団。
- ^ 文化と言語は一致しない。とくに、ひとつの文化集団のなかに複数の言語が存在する事例はよく見られる。
- ^ ウェネティ語がイタリック語派のもととなった可能性が高いと言われている。
- ^ この地のプロト・スラヴ人集団のうち他へ移住した諸集団がヴェネト人として一般に認識されたという可能性
参考文献
編集J. P. Mallory and D. Q. Adams, Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn Publishers, London and Chicago, 1997.