駸々堂

近畿地方に存在した書店及び出版社

駸々堂(しんしんどう)は、明治14年に大淵渉(おおぶちわたる)により創業された書店及び出版社京都市で創業、末期には大阪市に本社を移転[1]。明治14年から平成12年まで5代にわたって120年近く続いた。

概要

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駸々堂は大淵渉(安政元年~明治40年 1854~1907)によって1881年明治14年)に京都寺町通りにて書肆駸々堂として創業され、書店業と出版業を営んだ。寺町通は今も古書店が多いが、江戸時代中期には書店街が形成されていたとされる。

駸々堂の店主は初代渉、2代伝次郎(旧姓は炭谷 徳島出身 明治8年~大正8年)、3代善吉(旧姓は上田 奈良出身 明治25年~昭和36年)、4代甲子郎(旧姓は金沢 大阪出身 明治44年~平成13年)、5代馨(旧姓は萬 大阪出身 昭和17年~)と続いた。

 
駸々堂初代店主の大淵渉

渉と夫人のなみ(後述)の間には子どもがおらず、なみの妹の八重子の子シゲを養女にして、婿養子(炭谷伝次郎)をとった。以降も直系の男子が生まれなかったため、婿養子が続いた[2]

店名の「駸々」は中国古典の『詩経』中の「小雅」の「四牡」という一篇に由来し、馬が疾走するさまを意味して、物事が進展することにも転用される[3]

◆刊行ジャンルと店舗について
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出版されたジャンルは時代により異なるが、文芸書、講談速記本、演劇雑誌、探偵小説、滑稽(風刺)雑誌、民法や商法の解説書、旅行案内、地図、絵葉書、書道雑誌、漢和辞典、国語辞典、英和辞典、習字の検定教科書、教科書準拠問題集、学習参考書、文楽や能の写真集など、多岐にわたった。

書店の店舗は、京都・大阪・神戸を中心に約30店舗に及んだ。旗艦店の心斎橋店のあった心斎橋筋は、江戸時代に書籍問屋や版元が軒を並べる書店街を形成していた。平成7年に開店した神戸三宮店は約3千平方メートルの売り場面積を誇り、当時の書店としては最大規模級であった。

【大阪エリア】 心斎橋店(中央区南船場) 梅田店(北区梅田) 南千里店(吹田市津雲台) 北千里ディオス(吹田市古江台) 尼崎店(尼崎市神田) 京橋店(都島区東野田町) 寝屋川店(寝屋川市緑町) 香里園店(寝屋川市香里南之町) 西武高槻店(高槻市白梅町) 湊町店(中央区難波) 天王寺店(天王寺区悲田院町) アベ地下店(天王寺区堀越町)

【京都エリア】 京宝店(中京区河原町三条下ル) 三条店(中京区河原町三条東入ル) ポルタ店(JR京都駅前地下街) 桂店 (西京区桂南巽町) 長岡店(長岡京市天神) トライアングル(宇治市広野町)

【奈良エリア】 奈良大丸店(奈良市東向南町) 奈良西大寺店(奈良市西大寺栄町)

【神戸エリア】 神戸三宮店(中央区三宮町 三宮センタープラザ東館3階)

【COMIC LAND】 KYOTO(京都朝日会館2階) NARA(奈良市橋本町) whity(北区梅田) アメリカ村(中央区西心斎橋)

【文房具専門店】 ぼうぐ京橋(都島区東野田町) ぼうぐ北千里(吹田市古江台) ぼうぐ天王寺(天王寺区悲田院町)

 
駸々堂のコーポレートロゴ
◆初代の大淵渉の出自と初期の出版活動
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初代の大渕渉は元僧侶であった。安政元年(1854)7月23日京都市上京区元誓願寺通大宮東入ル寺今町の正賢寺(しょうけんじ)住職、並山覚雄(なみやまかくゆう)と三千代の次男として生まれた。渉の父、覚雄の生国は会津若松で元の名字は秋月、寺の次男であった。会津藩士と同道して入京、その人柄に惚れ込んだ正賢寺の檀家総代の強い要望で並山家を継いだ。渉の母、三千代は京都西陣の西光寺(上京区中立売通浄福西入ル)の娘で、西光寺は新規事業のためフランスから機織り機を購入したが経済的に行き詰まり、後に能登に移転する。

元治元年(1864)11歳のときに、渉は京都市上京区葭屋町通下立売上ル元福大明神町の真宗大谷派の眞敬寺(しんきょうじ)に養子入りして、13世住職湛了(たんりょう)となる。この眞敬寺は天正12年(1584)、真敬坊勝賢が開いたとされる。徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)お玉の方の養家・本庄家の菩提寺であったため、明治維新までは寺社奉行から寺禄が出ていた。

桂昌院は京都の西陣出身であったが、春日局のはしためとして江戸城の大奥に入り、将軍家光の寵愛を受けて綱吉を産んだ。経歴を整えるため二条家の家司であった北小路宗政の養女となり、宗政の長男の道芳(桂昌院の義兄)がのちに徳川家に仕えて本庄姓を名のった[4]。桂昌院の義弟にあたる本庄宗資も常陸笠間で5万石の大名となっており、眞敬寺の寺勢も振るったとされる。

渉の先代の12世住職湛然(たんぜん)には芳枝という娘がおり、渉の許嫁であったが明治2年に亡くなってしまう。

渉は明治10年、田中なみ(涛)と結婚する。渉は24歳、なみは22歳だった。なみは譜代7万石の近江膳所藩の士族、田中隼之助勝富(直心陰流の剣術師範 御纏奉行で70石)・クニ夫婦の次女で安政3年(1856)4月29日滋賀郡粟津村で生まれている。渉が明治40年5月12日に享年54で亡くなったのに対し、なみは生涯士族の娘としての矜持を保ち、昭和15年(1940)に85歳の長寿を全うするまで初代夫人として駸々堂を支えた[2]。なみの葬儀の際に葬儀委員長を務めたのは、渉の兄並山覚了の末子、並山興道(明治19年~昭和37年)であった。興道は京都大学を卒業後に法曹界に進み、判事となり青森や金沢等の地方裁判所の所長を歴任した。

 
大淵なみ

なみは大渕家が再縁で、最初の結婚相手は子爵難波宗明であった。難波家は花山院流の公家で蹴鞠を家職とする名家である。宗明は西南戦争(明治10年)で近衛第一連隊に少尉として参戦し、植木攻略戦の激戦で戦死してしまう。なみと宗明の間には明治6年に章子が生まれているが、協議離婚により章子は難波家で引き取られ、なみは実家に戻っていた[5]

章子はその後、子爵の梅小路定行(慶應元年~昭和17年 貴族院子爵議員)の後妻となった。二人の間の長女の加壽子は、後に子爵の梅溪通弘の妻となった。

なみの弟田中貞吉の娘信子は、米相場で財をなした松沢竜造に嫁ぎ、良子と祐三が生まれた。良子の夫はフランス文学者で新潮社の編集顧問を務めた河盛好蔵(明治35年~平成12年)である。祐三は後に駸々堂の出版部門に勤めて、その後、独立した。

渉が書店・出版業を志した背景には、15歳で迎えた明治維新による社会変動が大きく影響していると考えられる。寺の寺禄が消滅し、廃仏毀釈で仏教界は沈滞して、眞敬寺の本山の東本願寺まで門を閉めて謹慎するほどだった。もともと渉は仏典以外にも史書や詩歌書、江戸時代の読み本、人情本なども好んで読んでいたと考えらえる。

その証左として、渉の初期の出版活動においては江戸の戯作者たち、仮名垣魯文とも親交を保ち、その魯文をしのぐ人気を博した三世柳亭種彦(本名は高畑瓶四郎、号は藍泉)の作品集『柳亭叢書』を刊行している。

一方で渉は大阪の文芸書の先覚者といわれ、尾崎紅葉、巖谷小波、村上浪六、黒岩涙香など、新しい書き手の著書を世に出した[6]

『渉氏は京都の公家の流れを汲んだ方と聞いている。そう言えばなるほどとうなずける節がある、商人離れのした人であった。私の知った明治三十年頃は、既に大阪の現西の所で盛んに新しい感覚の出版物を出され当時嵩山堂と共に文芸雑誌、また巖谷小波・浪六・黒岩涙香などの著作を続々発行され新聞広告、目録の配布等、氏の事業全体が新しいその時代に先駆して商号通りの駿馬のような出版振で当時大阪の他の出版屋とは類を異にしていた。』という弘文社の湯川松次郎氏の証言が残っている。[5]

坪内逍遥の日記にも、明治20年の夏、朝日新聞から入社を打診されて来阪した折に駸々堂についての記載がある。「八月三日 雨 朝食後車夫をやとひて心斎橋筋に出、駸々堂の辺りまでゆく。」「八月六日 駸々堂主人手代を遣はして洋酒二壜を送る。」8月8日の夕方には渉が坪内を訪れた。「駸々堂来たりて予を南地に案内せんといふ。予妓流を謝絶したりといふ事と風邪なりといふ事を口実として之を辞ス[7]。」[7]

渉と坪内の間には前年の明治19年、坪内が東京の晩青堂から出した分冊版の『当世書生気質』を洋綴の一冊にまとめて駸々堂から刊行するという縁があった。その後、坪内が読売新聞に連載した『贋金つかひ』『松の内』の出版にもつながっている。

さて出版の初期において、渉が当時の関西文壇のベストセラー作家である宇田川文海の知遇を得たことが大きい。

文海は父母を喪い一家が離散して、駒込の養源寺で小僧生活を経験するなど苦労を重ねた。活版印刷の祖とされる本木昌造の弟子となった次兄の茂中貞次と再会したことを契機に印刷術を学び、秋田県で主筆と印刷の職工長を兼ねて新聞を創刊、のちに大阪では浪華新聞を創刊、朝日新聞に入社して続き読み物の連載が好評を博するなど、文名が高まっていた。

初めての出版物は二人のアイデアで「絵入人情 美也子新誌」という続き読み物を雑誌にしたもので、創刊号には戯作者として著名な仮名垣魯文の序文をもらっている。明治15年4月1日付の朝日新聞には、この雑誌の広告が掲載されている。

この広告の1年前の明治14年に、同じく朝日新聞に「田中駸々堂」の名で広告が出ている。田中はなみの実家の名字である。田中駸々堂の所在地は京都寺町通御池下ル東側、美也子新誌の奥付では下本能寺前町36番戸になっている。店の名義をなみの末弟の田中貞吉にして、僧侶の身でありながら商売をはじめたことに対する波風を避けようとしたようだが、1年ほどで「田中」の名前は消えている。

 
明治15年8月23日(水)の朝日新聞、赤い線の枠内に駸々堂の広告が掲載されている。

創業期の駸々堂の京都時代は短く2年半ほどで、明治17年(1884)には大阪の心斎橋に進出するのである。

◆眞敬寺の継嗣問題
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大阪に進出する前に、渉は眞敬寺の継嗣問題の解決をはかった。13世湛了(渉)の後に14世住職を継いだのは大淵法洞(愛知県海西郡出身)で、法洞を眞敬寺の養子に迎えて、渉の実家の並山家から末妹の峯尾を嫁入らせた。渉は明治23年には隠居還俗して俗名の渉に戻り、法洞が眞敬寺大淵家を相続した。眞敬寺の法統はその後も続き、渉の甥にあたる真了、陽一と受け継がれた。

この頃、なみの妹の八代子が離婚し、二人の子を連れて戻ってきた。女の子が後に2代伝次郎と夫婦になるシゲで、男の子は省一郎といった。子どもに恵まれなかった渉となみは八代子の二人の子をひきとり、大阪店の名義人には2歳になった省一郎を立てている。しかし省一郎は大阪店開店の翌年、3歳で亡くなってしまうのだった。

◆大阪の心斎橋に進出
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駸々堂の大阪での開業は明治17年2月18日、名義人は大淵省一郎(2歳)で資本金200円と記録されている。店舗の住所は奥付や広告では、「心斎橋北詰15番地」と表示されており、近くの塩町3丁目には大淵家の住居があった。店を出て少し南に行くと長堀川が流れており、その長堀川にかかっていた当時の心斎橋は長さ36メートルの鉄橋であった。

滝沢馬琴が享和2年(1802)に大阪の心斎橋を訪れ、書肆秋田屋の世話になったりしている。案内してくれた友人の田宮盧橘が戯作で家族5人を養っているのを知り、「大坂は書肆の富る地なることこれにてしるべし」という感想を残している。心斎橋筋に書店が発展したのは人通りが多かったのだが、南の道頓堀に面して芝居小屋が立ちならんでいたことも影響していたと考えられる。

大阪の旗揚げとして、宇田川文海から朝日新聞に連載していた「勤王佐幕 巷説二葉松」の単行本化を薦められ、幸先の良いスタートになった。おなじく、明治17年には定期刊行物の「演劇新報」を創刊し、内容は戎座の新作狂言の筋書きで構成されている。

明治20年頃までが駸々堂の草創期で、実用書や啓蒙書を多く出している。徴兵令、地租条令といった法律の解説書、英語の通信講座風の雑誌、速記術の本、占いの本、西洋服の裁縫、編み物の本、お漬物や西洋料理の本なども出している。

明治22年に創刊された「百千鳥」(ももちどり)は小説、講談、人情談話などを集めた文芸雑誌で、当時画期的な手法とされた速記術を適用したものであった。宇田川文海や尾崎紅葉も寄稿しており、広告文では1万部を刷ったという記述も残っている。大阪の庶民は講談や落語を歓迎する素地があったため、「百千鳥」は2年4カ月ほど安定して刊行することができた[2]

 
百千鳥の第5号
 
百千鳥の奥付に該当する部分。発行兼編輯人として大淵渉の名前が掲載されている。
◆兎屋との安売合戦
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大阪進出2年目で特筆すべき事件は、兎屋との書籍安売り合戦である。兎屋は東京の南鍋町が本店で店主の望月誠は粗製本の大安売りでのし上がり、大阪には駸々堂より早く進出していた。兎屋の大阪支店は、駸々堂の心斎橋店から300メートルと離れていない順慶町3丁目にあった。当時は松方デフレの不景気で、書籍の値段を4割引きで提供する新聞広告を渉が打つと、兎屋もさらに値引きした広告を出すなど、安売合戦の状況が以後2年間にわたって生まれたのだ。後には、駸々堂とは心斎橋をはさんで反対側の南詰西側の東京屋(東京鶴声社の支店でもとは卸売り専業だったが小売りを兼ねるようになった)まで安売りに参戦した。

広告を掲載した朝日新聞側がそれとなく自粛を要請したるする中、明治20年には兎屋の本店が9月1日に東京の読売新聞に書籍店廃業(実際は太物店への転業)を発表したこともあり、支店の方もすっかり下火になって収束を迎えた。

◆新文学の開拓
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尾崎紅葉が結成した文学結社、硯友社に属した江見水蔭(えみすいいん)の『自己中心明治文壇史』の明治22年に次のような記述がある。

『岡山に帰っていると、既に帰郷した小波からの手紙で、「尾崎が大阪の駸々堂の出版顧問に成る筈で──それは坪内先生の紹介で──今彼の地に行っているから、逢って能く相談して見たら好かろう」とあった。それで自分は徒歩で播州めぐりをして、姫路から汽車に乗って、大阪に行き、心斎橋筋の駸々堂を訪ねると、都合よく尾崎が大学生服で、店先に主人と対談していた。まァ僕の宿へ来給へと有って、築地の何とかいふ素人下宿見たような宿屋に連れて行った。一身上の相談と云っても簡単なので「駸々堂でも今度新文学の出版をやるので、新著百種のような物を出す筈だから」と兎に角田舎にいるよりは、上京した方が好かろうと成った。』[8]

「店先の主人」とは渉のことだ。『新著百種』は吉岡書店から明治22年に刊行された文芸雑誌で、水蔭も「当時の文壇登竜門は、何んと云っても「新著百種」であった。自分としては何とかして一篇を受持ちたかった」と述べている。この『新著百種』に紅葉は『二人比丘尼色懺悔』を掲載して話題になっていた。紅葉は駸々堂から『風流京人形』『紅子戯語』『南無阿弥陀仏』を刊行することになる[9]

 
尾崎紅葉の『風流京人形』の原稿料は5円で、版権は駸々堂に残っていたという。

明治22年の8月、大阪と新橋間の東海道線が全通した。紅葉はこの東海道線を使って来阪したのだった。慶應3年(1867)生まれの紅葉山人尾崎徳太郎は当時、帝国大学法科に在籍する23歳の青年で、渉より13歳年下である。渉は坪内を自宅に招き、紅葉をはじめとする硯友社のメンバーも呼んで新文学の作品を求めていることを伝えたのであろう。

一説には紅葉と親しかった巌谷小波が仲介したともいわれている。なみの実家は近江の膳所藩の藩士、小波の実家も同じく近江の水口藩で藩医を務める家だった。同郷であったのと、小波は京都の日出新聞の記者として3年間京都にいたので、なみとは姉弟のように親しかったとされる。

新文学の旗手たちと渉が仕事ができたのは、坪内との出会いが大きい。嵯峨の屋おむろ(矢崎鎮四郎)は外国語学校の露語科で知り合った二葉亭四迷(長谷川辰之助)の奨めで坪内の門をくぐって、書生になった。矢崎の処女作『浮世人情 守銭奴之肚(しまりみせのはら)』(万屋)、『ひとよぎり』(金港堂)に続く第3作『無味気(あじけなし)』が明治21年に駸々堂から刊行されたのも、坪内の仲介によるものだ。

渉は明治22年9月に『新著叢詞』、10月に『小説無尽蔵』と『花紅葉』という文芸雑誌を次々に創刊している。『新著叢詞』には紅葉、岡野半牧、水蔭、『小説無尽蔵』には西村天因(大阪

朝日の編集局員で浪速文学会を主宰する)や本吉欠伸(『平民新聞』を発行した堺利彦の兄)、『花紅葉』には半井桃水、文海、渡辺霞亭などの作品が掲載された。

◆「探偵小説」シリーズの刊行
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明治25年に『萬朝報』という日刊新聞を創刊したことで有名な黒岩涙香(周六)は、推理小説という新しい分野の開拓者であった。明治20年、『今日新聞』に『法廷の美人』『人耶鬼耶』を発表、欧米の政治小説の翻訳などが盛んであったが、涙香は人名や地名を日本名にするなどして原作を大胆にアレンジすることで、謎解きが楽しめる推理小説として人気を博した。

東京の春陽堂が明治26年には「探偵小説」シリーズの刊行を開始し、渉も半年遅れで「探偵小説」シリーズを世に出した。第一集『薄皮美人』、第二集『鬼美人』、第三集『かたき討』と続き、明治35年までシリーズは51冊になった。明治31年からは「探偵文庫」という新しいシリーズを立ち上げ、4年間で20編を刊行した。

◆民法解説書のヒット
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渉が明治31年に刊行した『改正 戸籍法註解』『改正 日本民法正解』は、法律の解説書として異例のヒットになった。著者(民法では校閲)の弁護士、乾吉次郎と渉が知り合った経緯については「杉浦重剛翁の門下生である朝日新聞の川波氏から紹介された」という記録がある。この川波とは朝日新聞で後に京都通信部長になった川那辺貞太郎である。ちなみに杉浦重剛は、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)の御進講役を務めた教育者としても著名な人物で、朝日新聞で社説を担当していた時期があった。

渉の妻なみは、この川那辺とは旧知の間柄であった。なみの父は膳所藩の剣術指南役で、川那辺も膳所藩出身で父親の弘記は御者頭席御小納戸役だった。杉浦の父も膳所藩の藩校(遵義堂)の頭取を勤めており、その縁で川那辺は維新後、杉浦の塾に入って塾頭となった。膳所藩のご縁がつながり、朝日新聞に入社した川那辺はよく駸々堂に立ち寄って、大阪朝日の優秀な人材を渉に紹介していたという。

◆鉄道の売店と旅行案内
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東海道線が全通する2年前の明治20年10月、駸々堂は駅構内に売店を開いている。大阪梅田、京都七条、大津、神戸、三ノ宮の5箇所である。もともと別の人物が前年の8月に店を出しており、明治21年4月に大淵なみの名義で正式に権利を買い取って鉄道局から承認も得られた。ただ大津、神戸、三ノ宮は採算が合わなかったようで、数か月で撤退している。

明治22年8月3日付の大淵なみ名義で鉄道局に対して、時刻表と運賃を印刷した扇子の販売許可を求める文書が出されている。斬新な着想といえるだろう。駸々堂が時刻表や運賃表を収録した『鉄道航海 旅行案内』(後に航海を航路と変更)を創刊したのは明治31年、折込の鉄道路線図がついていた。同年10月7日に朝日新聞に掲載された広告文の一部は「…而して鉄道線路は日に月に駸々として敷設せられ、今や全国に縦横せり」とある。

時刻表は東京京橋の庚寅新誌社が『汽車汽船 旅行案内』で先鞭をつけて成功し、後に博文館なども参入して競争が激化したようだ。駸々堂の『鉄道航路 旅行案内』は太平洋戦争の直前まで刊行されたロングセラーとなった。

◆第5回内国勧業博覧会
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明治36年3月1日から7月31日までの153日間、大阪で第5回内国勧業博覧会が開催された。同年4月20日には明治天皇の行幸を仰ぎ、梅田駅から肥後橋、信濃橋、そして駸々堂のある心斎橋通りまで明治天皇の御馬車が通ったのだった。

渉は博覧会の案内記製作について、住友吉左衛門を会長とする内国博覧協賛会から相談を受けた。こうして案内書『大阪と博覧会』が発行者が内国博覧協賛会、製本販売所として駸々堂、松村文海堂(心斎橋一丁目)、石塚松雲堂(安土町4丁目)の三店が選ばれて刊行された。大阪の旅館や交通、博覧会の略史や出品館の説明等で構成されている。

この他に駸々堂は日刊の「場内日報」を発行した。「大阪毎日」が最新式の輪転機を展示していたが、この輪転機の威力を示すものとして渉が「場内日報」のアイデアを出したとされる。




嵩山堂とは出版数を争うよきライバルであり、駸々堂が出版した書籍で木版口絵がついた作品の数も、口絵を描いた画家の数も多様であった。また、旅行案内や時刻表などの方面にも力を注いでいる。木版口絵を描いた画家としては井川洗厓稲野年恒歌川国松歌川国峰尾竹国一尾竹国観梶田半古鏑木清方観明鈴木錦泉筒井年峰松本洗耳水野年方宮川春汀黙仙森川蕉亭が挙げられる。

1935年には「合名会社駸々堂」として法人化[10]1968年には「株式会社大渕書店」に改組され、翌1969年に「株式会社駸々堂書店」に社名を変更[10]1992年に関連会社の「株式会社京都駸々堂」を吸収合併した際に社名を「株式会社駸々堂」に変更。以後も関西で書店を広く展開した他、学習参考書などの出版業務も引き続き行ったが、元々経営状態が悪く1981年以降は債務超過状態であった[10]。さらに書店の大型化の波に乗り遅れたことなどで経営が一層悪化、主要取引先である日本出版販売から商品引き上げを通告されるなど店舗運営の継続が困難となり[10]2000年1月31日自己破産を申請し倒産した[1]

なお同社が手がけていた中学受験向け模擬試験については大阪市鶴見区に本社を置く五ツ木書房が運営を引き継ぎ「五ツ木・駸々堂中学進学学力テスト会」の名称で現在も運営を継続している。

出身有名人

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脚注

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  1. ^ a b 個性出せず破綻老舗書店駸々堂”. きょうと経済新聞. 京都経済新聞社 (2000年2月7日). 2016年7月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月21日閲覧。
  2. ^ a b c 『心斎橋北詰』駸々堂出版株式会社、1986年。 
  3. ^ 『『詩経』』講談社学術文庫、1991年。 
  4. ^ . (2009-04-01). doi:10.52926/jpmjcr09e4. https://doi.org/10.52926/jpmjcr09e4. 
  5. ^ a b 『大阪の出版と文化』上方出版文化会、1960年。 
  6. ^ 『大阪の出版と文化』上方出版文化会、1960年。 
  7. ^ a b 『坪内逍遥日記』中央公論新社、1955年。 
  8. ^ 『自己中心明治文壇史』博文館、1927年。 
  9. ^ 『心斎橋北詰』駸々堂出版株式会社、1986年。 
  10. ^ a b c d 命令書 (PDF) - 大阪府地方労働委員会・2003年8月22日

参考文献

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  • 山田奈々子 『木版口絵総覧』 文生書院、2005年

関連項目

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