駙馬都尉
駙馬都尉(ふばとい)は、かつて中国で、皇帝が乗る馬車のそえ馬をつかさどった官職である[1]。紀元前2世紀に前漢で設けられた。
前漢
編集武帝のとき、奉車都尉とともに初めて置かれた[1]。設置年は明記されないが、奉車都尉の霍嬗が元封元年(紀元前110年)にあった封禅に従ったので[2]、奉車都尉・駙馬都尉の起源は即位年である紀元前141年より後、紀元前110年より前となる。
駙馬とは、馬車につながれるものの、牽引せずに伴走する馬である。4頭立ての馬車では馬を横に4頭並べて馬車につなぐが、綱に重みがかかるのは内側の2頭で、外側の2頭は横を走るだけである。この外側の馬が駙馬で、内側の馬が疲れると交代した。付け馬、副馬、副え馬(そえうま)ともいう。馬車は奉車都尉が管理し、駙馬を駙馬都尉が管理した。
官秩は比二千石[1]。部下がなく仕事も重要ではないが、皇帝の近くに控える側近で、比二千石は高禄である。武帝の駙馬都尉金日磾は、皇帝を暗殺しようとした馬何羅に抱きついて犯行を阻止した[3]。昭帝の代には幼い皇帝と年が近い金賞・金建の兄弟が8、9歳で奉車都尉・駙馬都尉になった[4]。続く王、史、趙、傅は外戚の一族。董賢は外戚ではないが哀帝に特に寵愛され、弟も駙馬都尉になった。
後漢
編集魏晋南北朝以降
編集後には公主(皇帝の娘)の夫が任命されることが多くなった。やがてもっぱら公主の夫の官職になって、「駙馬」が公主の夫を意味する言葉になった。
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駙馬都尉の人物
編集前漢
編集- 金日磾 - 武帝のとき、後元2年(紀元前87年)まで、侍中を兼ねる[7]。
- 金賞 - 昭帝(在位紀元前87年 - 紀元前74年)[8]。奉車都尉の誤りか。
- 金建 - 昭帝のとき。
- 王商 - 元帝の初元元年(紀元前48年)見、侍中を兼ねる[9]。
- 史丹 - 元帝即位(初元元年、紀元前48年)の直後に任、成帝即位(竟寧元年、紀元前33年)の直後に免、侍中を兼ねる[10]。
- 王商の親族 - 成帝のとき、河平4年(紀元前25年)まで[11]。
- 王舜 - 成帝のとき、綏和元年(紀元前8年)まで[12]。
- 趙欽 - 哀帝のとき、綏和2年(紀元前7年)5月以前に任[13] - 綏和2年5月の数か月後に免[14]
- 傅遷 - 哀帝のとき、綏和2年(紀元前7年)か建平元年(紀元前6年)見[15]
- 董賢 - 哀帝のとき、建平2年(紀元前5年)以降に任[16]、元寿元年(紀元前2年)12月まで[17]。
- 董寛信 - 元寿元年(紀元前2年)12月任[18]、平帝の元寿2年(紀元前1年)免[19]。
三国
編集魏
編集蜀
編集脚注
編集- ^ a b c 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上。『『漢書』百官公卿表訳注』148頁。
- ^ 『漢書』巻55、衛青霍去病伝第25。ちくま学芸文庫『漢書』5の267頁。
- ^ 『漢書』巻68、霍光金日磾伝、金日磾。ちくま学芸文庫『漢書』6の149頁。
- ^ 『漢書』巻68、金日磾。ちくま学芸文庫『漢書』6の150頁。
- ^ 司馬彪『続漢書』百官志二。早稲田文庫『後漢書』志2の459頁。
- ^ 司馬彪『続漢書』百官志二の劉昭注。早稲田文庫『後漢書』志2の460頁注2。
- ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、後元2年。『『漢書』百官公卿表訳注』207頁。
- ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、序。ちくま学芸文庫『漢書』 7の513頁。
- ^ 『漢書』巻64下、巌朱吾丘主父徐巌終王賈伝第34下、賈捐之。ちくま学芸文庫『漢書』5の628頁。
- ^ 『漢書』巻82、王商史丹傅喜伝、王商。ちくま学芸文庫『漢書』7の頁。
- ^ 『漢書』巻82、王商史丹傅喜伝、王商。ちくま学芸文庫『漢書』7の91頁。
- ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下、綏和元年。『『漢書』百官公卿表訳注』207頁。
- ^ 『漢書』巻97下、外戚電第67下。ちく学芸文庫『漢書』8の195頁に、駙馬都尉の趙欽を新成侯になしたとある。それが綏和2年5月であることは、『漢書』巻11、哀帝紀第11、綏和2年5月。ちくま学芸文庫『漢書』1の333頁。
- ^ 『漢書』巻97下、外戚電第67下。ちく学芸文庫『漢書』8の201頁。
- ^ 『漢書』漢81、匡張孔馬伝第51、孔光伝。ちくま学芸文庫7の61。丞相孔光と大司空史丹が駙馬都尉傅遷の免職について奏上。両人の同時在職年を『漢書』百官公卿表下で見る。
- ^ 綏和2年(紀元前7年)の哀帝即位から2年余り後に帝に見いだされ、その時から董賢の出世がはじまった。『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の526頁。
- ^ 『漢書』巻19下、百官公卿表第7下。『『漢書』百官公卿表訳注』221頁。
- ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の530頁。
- ^ 『漢書』巻93、佞幸伝第63、董賢。ちくま学芸文庫『漢書』7の534頁。