駒井徳造
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駒井 徳造(こまい とくぞう、1932年3月31日 - )は元トムス・エンタテインメント会長。大阪市出身。
学歴
編集職歴
編集- 1954年4月1日 - 任天堂に入社。
- 1974年4月1日 - 任天堂取締役。
- 1982年3月31日 - 任天堂を退社。
- 1982年4月1日 - セガに入社。
- 1991年4月1日 - セガ代表取締役副社長。
- 1992年 - アメリカ合衆国での特許侵害提訴の陣頭指揮。
- 1993年4月1日 - セガエディーケーションシステム代表取締役社長。
- 1994年4月1日 - リンガフォン・ジャパン代表取締役会長。
- 1995年4月1日 - トムス・エンタテインメント代表取締役会長。
- 1996年4月1日 - トムス・エンタテインメント代表取締役会長兼社長。
- 2004年6月1日 - トムス・エンタテインメント会長。
- 2005年6月29日 - トムス・エンタテインメントを退社。
人物
編集任天堂の取締役になって以降、アーケードゲーム機器の販売会社である任天堂レジャーシステムの取締役営業部長も務めていた[1]。
任天堂は1980年に携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し過去の借金を帳消しにするほどの売り上げを記録。その利益を元手に、アーケードゲームを家庭で再現できる新しい家庭用テレビゲーム機の開発に着手。家庭用テレビゲーム機のハード及びソフト開発にアーケードゲームの開発者を担当させたために、任天堂のアーケードゲーム事業は急速に縮小していく。社長の山内溥(当時)の「アーケードはもうやめや」の声でアーケードゲーム事業の撤退が決まったが、それに駒井は反発して退社した[要出典]。
任天堂退社後はセガに入社した。そこで駒井は専務となり、セガ初のコンシューマーゲームであるSC-3000[2]に携わったことでセガのコンシューマー事業が始まった[3]。そしてSC-3000からゲーム機に特化したものとしてSG-1000が作られた[4]が、発売の際は駒井によって任天堂が開発していたゲーム機・ファミリーコンピュータの販売価格がセガ側に伝えられ、その価格を基にSG-1000の価格が決められたとされている[5]。
担当作品
編集テレビ
編集映画
編集- 名探偵コナン 時計じかけの摩天楼
- 名探偵コナン 14番目の標的
- 名探偵コナン 世紀末の魔術師
- 名探偵コナン 瞳の中の暗殺者
- 名探偵コナン 天国へのカウントダウン
- 名探偵コナン ベイカー街の亡霊
- 名探偵コナン 迷宮の十字路
- 名探偵コナン 銀翼の奇術師
- 名探偵コナン 水平線上の陰謀
OVA
編集脚注
編集出典
編集- ^ 「新年展望 反省から実行の年へ」『ゲームマシン』(PDF)、第157号、アミューズメント通信社、1981年1月1日、5面。2024年9月10日閲覧。
- ^ 佐藤秀樹(インタビュアー:清水洋、鴫原盛之, 山口翔太郎)「1983年に家庭用ゲーム機「SG-1000」を開発」(PDF)『佐藤秀樹第2回インタビュー後半:家庭用ゲーム機における任天堂との競争』、立命館大学ゲーム研究センター、10頁、2018年2月 。2024年9月10日閲覧。
- ^ 馬波レイ (2016年6月3日). “セガのハードに込められた熱意が語られた GAME ONトークイベント“セガハードの歴史を語り尽くす”詳細リポート(1/2)”. ファミ通.com. KADOKAWA Game Linkage. 2024年9月10日閲覧。
- ^ 佐藤秀樹(インタビュアー:清水洋、鴫原盛之, 山口翔太郎)「1983年に家庭用ゲーム機「SG-1000」を開発」(PDF)『佐藤秀樹第2回インタビュー後半:家庭用ゲーム機における任天堂との競争』、立命館大学ゲーム研究センター、12頁、2018年2月 。2024年9月10日閲覧。
- ^ 佐藤秀樹(インタビュアー:清水洋、鴫原盛之, 山口翔太郎)「サードパーティーのゲームに対するライセンス」(PDF)『佐藤秀樹第2回インタビュー後半:家庭用ゲーム機における任天堂との競争』、立命館大学ゲーム研究センター、18頁、2018年2月 。2024年9月10日閲覧。
参考文献
編集- 『新訂 現代日本人名録2002②』日外アソシエーツ、2002年1月、960頁。ISBN 978-4-8169-1695-3。