馮如
馮 如(ふう じょ/フェン・フウ[1]、簡体字: 冯如、繁体字: 馮如、ピンイン: Féng Rú[1]、1884年1月12日 - 1912年8月25日)、米国名フング・ジョー・グエイ(Fung Joe Guey、馮珠九)は、中国の飛行家・飛行機設計家。1909年9月21日に自らが設計した飛行機で初飛行し、中国人かつアメリカ西海岸で初の動力飛行に成功した[2]。中国航空の父とされている[1][2][3]。
馮如 冯如・馮如 | |
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北京航空航天大学にある馮如の胸像(2006年)[注釈 1] | |
生誕 |
1884年1月12日 清国広東省肇慶府恩平県 |
死没 |
1912年8月25日(28歳没) 中華民国広東省広州市燕塘飛行場 |
死因 | 展示飛行中の墜落事故 |
墓地 | 黄花崗七十二烈士墓馮如墓 |
モニュメント |
中国広東省広州市天河区花生寮大街 中国北京市海淀区北京航空航天大学 アメリカカリフォルニア州オークランドラニー大学 |
飛行経歴 | |
著名な実績 | 中国人初、アメリカ西海岸初の飛行機製造・飛行 |
初飛行 |
1909年9月21日 馮如2号 |
空軍 | 中華民国 国民軍 |
戦争 | 辛亥革命 |
階級 | 少将 (中華民国空軍) |
生涯
編集移住と飛行機開発
編集馮如は1884年1月12日、清の広東省肇慶府恩平県で生まれた。1896年、12歳で父と一緒にアメリカに移住し、カルフォルニア州各地を転々とした。1903年、19歳の時にライト兄弟の動力飛行に触れ[1]、機械工学に興味を持った。1905年、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に伴い、旅順と大連、南満州鉄道の権益を日本が得たことに刺激された馮如は、飛行機の戦力的価値に注目し[1]、飛行機の製造を思い立った。馮如は1906年にサンフランシスコに移住した[1]が、サンフランシスコ地震で市内が壊滅したため、オークランドのチャイナタウン中心部にあるイーストナインスストリート359に再移住し[2][4]、飛行機製造を目指して工場を創業した。馮如は独学でライト兄弟やグレン・カーチス、アンリ・ファルマンの著作を翻訳しつつ、中国系アメリカ人向けにポンプや電話機・電信機などの製造販売を行った[3]。工場は8×10ft(2.4×3m)の非常に小さい間取りだったが、工具や航空関係の書籍、雑誌が置かれ、ここで馮如は午前3時まで熱心に研究をつづけた[3]。
初飛行
編集1908年、馮如は飛行機製造に乗り出しGuangdong Air Vehicle Company(広東飛行機械会社)を創業[3]、華僑を説得して飛行機を自作するための資金を集めた[1]。カーチス モデルDに類似する全幅7.6m、自ら設計した6馬力のエンジンを搭載した複葉機馮如1号は、オークランドで試験飛行を2回行なったが、墜落して馮如の工場に突入した[3]。
幸い馮如に怪我は無かったため、馮如は再び資金を集め、67人が出資した5,875ドルで馮如2号の製作を始めた[1]。馮如2号の製造は秘密裏に行われ、工場はオークランド郊外に移転し、部品はこの工場で組み立てられた。工場周囲にはガードマンが配置され、来客との会話は壁の隙間を介して行うほどだった[3]。馮如2号は1909年9月21日午後にオークランド近郊のピードモントで、数人の助手である黄杞・張南・譚耀能や地元農民が見守る中[4]、20分間の初飛行に成功した[2]。馮如2号はピートモント上空10-12ft(3-3.6m)を周回飛行した[4]が、飛行中にプロペラシャフトを固定するボルトが脱落して墜落し、馮如は打撲の軽傷を負った[3][4]。馮如の初飛行は、航空界からは黄禍論的感情[注釈 2]から「非常に疑わしい」とされたが、『サンフランシスコ・コール』や『オークランド・トリビューン』などの地元紙[2]、さらに『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ[3]、馮如はアメリカ国際航空学会から飛行士の資格証を得た[1]。
事故死
編集馮如の初飛行は、在米中だった孫文の知るところとなった。孫文は馮如に対し、中国に帰国して航空技術の発展と香港・広州での展示飛行を依頼した。1911年3月21日、馮如は複葉機と6人の助手を伴い、辛亥革命真っ只中の香港に帰国した[3]。革命当局は、馮如を陸軍航空長に任命し、偵察飛行隊を編成した[1]。1912年8月25日、馮如は広州の燕塘飛行場で1,000人の観客を前に展示飛行を行ったが、高度36mから上昇中にエンジンが故障し、竹林に墜落した。墜落の際に肺を竹が貫いたのが致命傷となり[3]、馮如は29歳の若さで死亡した[1]。死の間際に助手に語った「勿因吾斃而阻其進取心、須知此為必有之階級。(私の死で君の進取の気性を妨げるな、これ位の事は必ず起きることを知っておきなさい。)」が最後の言葉となった[3]。この事故が原因で、燕塘飛行場は廃止された。
顕彰
編集馮如の死後、国民党軍は馮如を陸軍少将に任じた[1]ほか、広州市の黄花崗七十二烈士墓に埋葬し、彼の墓(馮如墓)には孫文によって「中国創始飛行大家馮君如之墓(中国航空の創始者馮如君の墓)」という言葉が刻まれており[3]、近代の代表的な重要建築として1983年8月に広州市指定文化財に指定された。
馮如の生涯は、1975年にローレンス・イェップが発表した小説『ドラゴン複葉機よ、飛べ』のモデルとなった。本作はニューベリー賞佳作を受賞したほか戯曲となり、1995年にフェニックス賞を受賞した。
中国の北京航空航天大学には、馮如の胸像が設置された。同大学では毎年、科学コンテストである「馮如カップ」が開催される。中国空軍航空博物館には馮如2号のレプリカが展示されている。
1988年、広州沙河文化博物館協会によって、燕塘飛行場があった広州市天河区花生寮大街に「馮如墜落の碑」が建てられ、2004年8月には天河区人民政府によって馮如の石像が設置された。
2009年9月19日、彼の工場があったオークランドのラニー大学構内で、オークランド公共図書館の学芸員スティーブ・ラヴォワ[注釈 3]とアメリカ空軍民間航空警備隊のロジャー・グレン中佐[注釈 4]主催して初飛行100周年の記念式典が開催された。式典では、馮如の功績についてラヴォワの講演があり、Skypeによって杭州の中学校にも同時配信された。さらに、馮如の胸像(銭江晩報後援、龍翔作)の除幕式が行われた[2]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 生年が1883年となっているが、これは清国で用いられていた太陰太陽暦に基づく年表記である。清国年号では光緒9年となる。
- ^ アメリカでは中国系移民の増加から、1889年に制定された中国人排斥法が1902年に恒久法となり、チャイナタウンで隔離に近い生活を余儀なくされた[2]。馮如が中国に帰国したのも、反中感情の高まりが影響していた[3]。
- ^ ラヴォワは馮如の伝記研究を行っており、1909年9月21日の初飛行を再発見した[2]。
- ^ 歯の主治医であるウェイン・フォンが馮如について詳しいことが縁となり、インターネット上で公表されていたラヴォワの研究を銭江晩報の記者に紹介し、同紙から胸像作成の後援を得ることに成功した[2]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l 田辺義明「最新・中国航空・軍事トピック 航空の父」『航空ファン』通巻802号(2019年10月号)文林堂 P.70
- ^ a b c d e f g h i “Oakland CA Chinatown Makes Aviation History”. City Brights (2011年). 11 February 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m Maksel, Rebecca (August 13, 2008). “The Father of Chinese Aviation”. Air & Space. Smithsonian Institution. September 17, 2021閲覧。
- ^ a b c d “Feng Ru”. earlyaviators.com (2011年). 2021年9月17日閲覧。