香川正人
香川 正人(かがわ まさと、1954年3月27日 - 2016年11月3日[1])は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(投手)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県坂出市 |
生年月日 | 1954年3月27日 |
没年月日 | 2016年11月3日(62歳没) |
身長 体重 |
181 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト5位 |
初出場 | 1979年4月10日 |
最終出場 | 1980年5月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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元プロ野球選手の香川正は実父。
来歴・人物
編集坂出工業高校では2年生からエースとなる。1971年夏の甲子園香川県予選では、1回戦で三本松高を相手にノーヒットノーランを記録。しかし準決勝で坂出商に敗退した。高校卒業後は早稲田大学に進学するが、同期には阿部政文、谷井潤一(日産自動車)と好投手がおり、東京六大学野球リーグではあまり出番はなかった。
大学卒業後は三菱重工神戸に入社、1977年ドラフトで近鉄バファローズに5位指名される。これを保留したまま1978年の都市対抗にエースとして出場。1回戦で東芝の黒紙義弘と投げ合うが完封負け[2]。同年の社会人野球日本選手権は準々決勝に進むが、松下電器の福間納に抑えられ延長10回サヨナラ負けを喫する[3]。その後に1年遅れで入団。
教育リーグでチェンジアップを習得、変則フォームからスライダー、シュート、スローカーブ、フォークと多彩な変化球を武器にした。1979年には中継ぎ、抑えとして起用され5勝2Sをあげる。しかし肘を故障し、翌年以後は偵察メンバーで1試合に出場したのみで、1982年オフに自由契約となり横浜大洋ホエールズに移籍。ここでは公式戦に登板できず、1983年限りで現役を引退した。
引退後はクラブチーム・西多摩倶楽部にて、選手兼任コーチを経て2009年より選手兼任監督を務めていた。2016年11月3日、肺がんにより死去[1]。62歳没。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1979 | 近鉄 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | -- | 1.000 | 188 | 42.1 | 47 | 9 | 16 | 0 | 2 | 26 | 2 | 1 | 24 | 22 | 4.68 | 1.49 |
通算:1年 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 2 | -- | 1.000 | 188 | 42.1 | 47 | 9 | 16 | 0 | 2 | 26 | 2 | 1 | 24 | 22 | 4.68 | 1.49 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
編集- 初登板・初勝利:1979年4月10日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(日生球場)、7回表1死に2番手で救援登板・完了、2回2/3を無失点
- 初奪三振:同上、8回表に江島巧から
- 初セーブ:1979年5月6日、対阪急ブレーブス前期6回戦(藤井寺球場)、9回表無死に3番手で救援登板・完了、1回無失点
背番号
編集- 11 (1979年 - 1982年)
- 62 (1983年)
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b “元近鉄投手・香川正人氏が死去、62歳”. サンケイスポーツ. (2016年11月6日) 2016年11月6日閲覧。
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 「社会人野球日本選手権大会20年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1994年
外部リンク
編集- 午後の独り言のブログ - 香川正人 公式ブログ
- 個人年度別成績 香川正人 - NPB.jp 日本野球機構