飯高神社

千葉県匝瑳市にある神社

飯高神社は、千葉県匝瑳市飯高にある神社で、祭神天御中主命(アメノミナカヌシミコト)。主要建物は本殿銅板板葺神明造9坪、拝殿瓦葺入母屋造20坪。境内坪数649坪[1]拝殿天井には133枚の草花絵が飾られ、拝殿から本殿を囲むように二十四孝の彫刻が施された玉垣が巡らされている。

飯高神社
飯高神社正面
所在地 千葉県匝瑳市飯高475
位置 北緯35度44分19秒 東経140度31分49秒 / 北緯35.73861度 東経140.53028度 / 35.73861; 140.53028 (飯高神社)座標: 北緯35度44分19秒 東経140度31分49秒 / 北緯35.73861度 東経140.53028度 / 35.73861; 140.53028 (飯高神社)
主祭神 天御中主命
社格村社
創建 天慶元年(938年)
本殿の様式 銅板板葺神明造9
例祭 1月8日(お奉謝)
地図
飯高神社の位置(千葉県内)
飯高神社
飯高神社
飯高神社の位置(関東地方内)
飯高神社
飯高神社
テンプレートを表示

由緒・沿革

編集

社伝によると「天慶年間平良文の祀る所の六妙見の一つ。後に子孫千葉常重が新築する。あるいは飯高城平山常時形部少輔の祖新藤太入道継空が千葉妙見に参籠し、一像をこの地に感得す。その時霊亀白蛇の瑞があり、この地を亀田蛇ケ洞と名付け、妙見山妙福寺を建てた。」とある[2]

平良文平将門の叔父にあたり、承平天慶の乱では将門と共に戦ったとも、乱鎮圧のため朝廷より命を受け敵対したとも伝えられている[3]。乱の際絶体絶命の危機になり自害の場を探していた時、妙見菩薩の声に導かれるまま辿り着いたのがこの地。その後妙見菩薩の加護を受けた平良文は出世し、その子孫千葉氏、更にその一族飯高氏へと受け継がれた。現在神社がある昌山(さかりやま)という小山は、戦国時代には飯高城(現・飯高寺)の出城の一つ飯高砦と考えられている[4]

明治維新の際、妙見像を妙見寺に移し、さらに天御中主命を祀り社号を飯高神社と改め村社に列す[2]

18世紀後半の下総地方における神社彫刻の典型例として、本殿は千葉県指定有形文化財、天井絵が描かれている拝殿及び 神社周囲の二十四孝の彫刻が施された玉垣は匝瑳市指定文化財である。二十四孝の彫刻が施された玉垣は、千葉県内では当神社と成田山新勝寺、そして八千代市飯綱神社にも確認されている[4](玉垣彫刻は宝暦七年(1757年)彫物棟梁 前林善右衛門による)[5]

 
飯高神社玉垣
 
飯高神社拝殿天井絵

築歴

編集
  • 天慶元年(938年) 創建(平良文)
  • 延慶三年(1310年)妙福寺・妙見堂が建つ(飯高寺境内 新藤太入道継空)
  • 寛永四年(1627年)妙見堂を昌山へ移す(妙福寺と飯高寺の争いによる)
  • 延享四年(1747年)に改築
  • 大正四年(1915年)本殿を修繕

[6][5]

現状

編集

拝殿は痛みがひどくつっかえ棒により倒壊を防いでいる。再建修理するにあたり行政からの支援は50%で、残りは氏子などで賄わなければならないが氏子数の減少の為、再建は非常に厳しい状況である。

脚注

編集
  1. ^ [千葉県神社名鑑より]
  2. ^ a b [香取郡史より]
  3. ^ 大法師浄蔵伝が引用した外記日記に「将門殺害の知らせを平某が安部忠良に知らせた云々」とありこれが平良文の可能性が高いことがわかった。今まで伝承にしか登場しなかった平良文が初めて信頼できる史料にあらわれた。敗死後すぐに伝達されたことから反将門側にいたこことが推察される。[千葉県の歴史 通史編 古代2より]
  4. ^ a b [東総の城郭と居館跡より]
  5. ^ a b [新編 飯高村郷土誌市史編さん資料より]
  6. ^ [ふるさとの歴史(飯高地区のむかしより]

参考文献

編集
  • 千葉県神社名鑑 編:千葉県神社名鑑刊行委員会
  • 香取郡史 編:千葉県香取郡
  • 千葉県の歴史 通史編 古代2 (財)千葉県史料研究財団
  • 東総の城郭と居館跡 秀英社 高森良晶 椎名幸一
  • ふるさとの歴史(飯高地区のむかし)編:石渡治雄 発行:飯高地区の歴史を守る会 飯高教育振興会
  • 新編 飯高村郷土誌市史編さん資料 編:八日市場市史編さん委員会

アクセス

編集