飯塚知信

昭和時代の政治家、実業家、銀行家

飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年明治25年)6月29日[1] - 1965年昭和40年)3月12日[2])は、昭和時代の政治家実業家銀行家貴族院多額納税者議員衆議院議員(1期)。

飯塚知信

経歴

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新潟県刈羽郡日高村新道(高田村新道を経て現柏崎市新道)で[3]、素封家、実業家、政治家・飯塚弥一郎の二男として生まれる[4][5]1918年大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業し、1921年(大正10年)欧米を視察する[2]1924年(大正13年)柏崎銀行頭取、ついで柏崎瓦斯取締役、第四銀行監査役、柏崎農業倉庫組合長、早稲田大学評議員、新潟県山林会顧問、新潟地方裁判所陪審委員長、高田村長[2][5]百三十九銀行取締役、上条郷農業振興会長、柏崎販売購買利用組合長、新潟県農会特別議員、刈羽郡乾繭組合長、高田村農協組合長などを歴任した[6]

1928年昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では新潟県第3区から立憲民政党所属で出馬し当選し、1期務めた[6][5]。ほか、1939年(昭和14年)新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[7]から1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。貴族院議員在任中の1944年(昭和19年)には新潟県実業教育振興会役員となり、私有地を柏崎農業学校(現新潟県立柏崎総合高等学校)用地として寄付するなど郷里の教育振興に努めた[3][5]

栄典

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勲章等

著作

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  • 『中支皇軍慰問行』飯塚知信、1940年。
  • 『南支皇軍慰問行』飯塚知信、1941年。

親族

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その他

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  • 1947年(昭和22年)10月、新潟県内に昭和天皇の戦後巡幸があり、柏崎市内の宿泊所として飯塚邸が充てられた。同月10日から12日まで滞在[10]。夫人が「米山名月はぎの華」(おはぎ)などの郷土料理を作り、天皇から御礼を賜っている[11]

脚注

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  1. ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、9頁。
  2. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1960, 179頁.
  3. ^ a b c 新潟日報事業社出版部 1984, 126頁.
  4. ^ a b 『人事興信録 第6版』い65頁。
  5. ^ a b c d 『柏崎の先人たち』20-21頁。
  6. ^ a b 衆議院、参議院 編 1962, 40頁.
  7. ^ 『官報』第3823号、昭和14年9月30日。
  8. ^ 人事興信録 第8版 サ69
  9. ^ 人事興信録 第8版 イ54
  10. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、97頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  11. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、481頁。ISBN 978-4-487-74410-7 

参考文献

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