飫肥城
飫肥城(おびじょう)は、宮崎県日南市飫肥(日向国南部)にあった日本の城。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。酒谷川北岸、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた[1]群郭式の平山城である。伊東四十八城の一つ。
飫肥城 (宮崎県) | |
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大手門(木造復元) | |
城郭構造 | 群郭式平山城 |
天守構造 | 建造されず |
築城主 | 土持氏 |
築城年 | 戦国初期 |
主な改修者 | 伊東祐兵 |
主な城主 | 土持氏、新納氏、伊東氏 |
廃城年 | 1871年 |
遺構 | 石垣 |
指定文化財 | 日南市史跡 |
再建造物 | 御殿、大手門、土塀 |
位置 | 北緯31度37分44.78秒 東経131度21分1.09秒 / 北緯31.6291056度 東経131.3503028度座標: 北緯31度37分44.78秒 東経131度21分1.09秒 / 北緯31.6291056度 東経131.3503028度 |
地図 |
歴史・沿革
編集南北朝~戦国時代
編集飫肥の地は、酒谷川河口の
戦国初期は島津氏の属城で、初めは築城主の土持氏が治めていた。1484年(文明16年)、伊東氏が飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死してしまうと、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる。
伊東義祐(祐国の孫)は1544年(天文13年)に飫肥城攻めを始め、1560年(永禄3年)には室町幕府将軍足利義輝が和議を仲介したが、1562年(永禄5年)には飫肥城を手に入れた[1]。子の伊東祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年(元亀3年)に伊東氏が木崎原の戦いに敗れて衰退し始めると、島津氏は日向で勢力を拡大。1576年(天正4年)に飫肥城を再び支配下に収めた[1]。
一時飫肥を失った伊東祐兵は豊臣秀吉に仕えて、1587年(天正15年)の九州平定では先導役を務めた。島津氏が豊臣政権に降伏したため、祐兵は翌1588年(天正16年)に飫肥城主に返り咲いた[1]。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦は100年以上の長きにわたった。
江戸時代
編集城郭考古学者の千田嘉博によると、飫肥城は、垂直方向に切ると安定するシラス台地の特性を生かして城壁となし、堀や曲輪、石垣をもうけた[1]。江戸時代前期には三度の大きな地震に見舞われて大規模な補修が行なわれ、1691年(元禄4年)に堀と石垣の修復が終わり、1693年(元禄6年)には御殿が完成した[1]。この過程で本丸を現在地に移してその前に桝形の役目を担う石垣を築くなど、織豊政権以来の東海地方・畿内の城づくりが取り入れられた[1]。
城下町も発展して現代まで当時の風情を残し、飫肥地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている[1](後述)。
現代
編集近年では1978年に大手門が復元されたほか、城内御殿を模した歴史資料館が木造で建設されている。ただしこれらは元の外観資料がなく、形は考証によるものであり、史実通りの復元ではない。また、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校「振徳堂」が前身)が建てられている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(96番)に選定された。
なお飫肥城下町は1977年(昭和52年)、国(文部大臣)により九州・沖縄地方で最初の重要伝統的建造物群保存地区として選定された[3]。保存地区内には城下町時代の道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残る。地区内には飫肥城跡のほか、最後の藩主・伊東祐帰が住んだ邸宅(豫章館)、振徳堂のほか