額亦都克巴爾達
経緯
編集明万暦15年1587旧暦6月、建州女直酋長ヌルハチ (後の清太祖) は哲陳ジェチェン部を征討し、その山砦[注 2]を攻略して砦主・阿爾泰アルタイを斬伐した。[1][2]
続いて同年8月、額亦都巴圖魯エイドゥ・バトゥルはヌルハチの命を奉じて渾河フネヘ部の把爾達バルダ城に侵攻した。渾河の水位が上がっているのをみたエイドゥは、縄で兵士を一列につないで[注 3]魚貫して渡らせ、城塞にたどり着くと、精鋭数人とともに闇夜に紛れて梯子をかけ城内に侵入した。敵兵の迎撃に遭ったエイドゥは城壁に跨がりながら応戦し、身体に50箇所の創痍を負っても退却せず、ついに敵兵が逃散したのをみて一気に陥落させた。[1][2]
→「太祖招撫扎海」も参照
脚註
編集典拠
編集註釈
編集文献
編集實錄
編集『清實錄』
- 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
- 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
- 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)
史書
編集Web
編集- 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)