須 賈(しゅ か、生没年不詳)は、中国戦国時代末期の官吏または外交官。魏の昭王時代に中大夫を務めた。

経歴

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紀元前275年の穣侯魏冄率いる秦軍が魏に攻め入り魏将芒卯、韓将暴鳶の軍と戦となり芒卯と暴鳶の軍は敗れ、魏の首都大梁に秦軍が迫る事態となった[1][2]。この時、須賈は和睦の使者として秦軍と交渉にあたりこれを成功させ大梁攻めは免れた[3][4]

須賈が使者としてに赴いた際、斉の襄王は須賈に随行していた食客范雎が知識・弁舌に優れた賢者と聞き及んで金10斤・牛・酒を贈ろうとしたが、范雎はこれを断った。しかしこれを聞いた須賈は邪推または嫉妬し、帰国すると魏国宰相魏斉にこの件を報告し、范雎は斉王の間諜であると誣告した。

報告を受け魏斉は范雎を捕えて拷問を加え、この為に范雎は歯と肋を折る重傷を負わされ更には簀巻きにされて便所に放り込まれて宴席の客に小便を掛けられる恥辱を受けた。范雎は看守に助けを請い、死亡を装って逃がされると友人の鄭安平に匿われそこで傷を癒して名を張禄と変えて魏斉の追捕を逃れ、の使者として魏を訪問していた謁者の王稽を鄭安平に紹介してもらい、秦へ赴き王稽から秦の昭襄王に推挙してもらうと後に秦の相国まで上り詰めた。

後に昭襄王が魏を討とうとした際、魏は須賈を講和の特使として派遣した。范雎はこれを知ると見すぼらしい姿で須賈の前に姿を現し、日雇い労働者と今の立場を偽って語ると須賈はこれを哀れに思い食事を共にし絹の綈袍(厚い綿入れ着)を買い与えた[5]。その後范雎は自らの館へ須賈を入れ、そこで現在の実の身分を明かすと須賈はその前で上着を脱ぎ、地に頭を打ち付けて過去のことを謝罪した。

魏斉だけでなく須賈に対しても強い復讐心を抱いていた范雎だったが、直前に須賈が見せた旧縁の情でこれを幾分許し、各国の要人を招いた宴席を設けて須賈を下座に座らせ両脇には囚人を座らせるとその前に飼い葉桶にと大豆を詰めて供し、須賈に馬の様にこれを食べさせる恥辱を与え、魏王に魏斉を殺して差し出せば魏を攻めるのを止めるが、それをしない場合は魏都の大梁(現在の河南省開封市)を皆殺しにすると伝言を与え帰国させた。

参考文献

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外部リンク

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脚注

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  1. ^ 史記』巻五 秦本紀:三十二年,相穣侯攻魏,至大梁,破暴鳶,斬首四万,鳶走,魏入三県請和。
  2. ^ 『史記』巻四十五 韓世家:二十一年,使暴鳶救魏,為秦所敗,鳶走開封。
  3. ^ 『史記』巻七十二 穣侯列伝:昭王三十二年,穣侯為相国,将兵攻魏,走芒卯,入北宅,遂囲大梁。梁大夫須賈説穣侯曰:「臣聞魏之長吏謂魏王曰:『昔梁恵王伐趙,戦勝三梁,抜邯鄲;趙氏不割,而邯鄲復帰。斉人攻衛,抜故国,殺子良;衛人不割,而故地復反。衛・趙之所以国全兵勁而地不併於諸侯者,以其能忍難而重出地也。宋・中山数伐割地,而国随以亡。臣以為衛・趙可法,而宋・中山可為戒也。秦,貪戻之国也,而毋親。蚕食魏氏,又尽晋国,戦勝暴子,割八県,地未畢入,兵復出矣。夫秦何厭之有哉!今又走芒卯,入北宅,此非敢攻梁也,且劫王以求多割地。王必勿聴也。今王背楚・趙而講秦,楚・趙怒而去王,与王争事秦,秦必受之。秦挾楚・趙之兵以復攻梁,則国求無亡不可得也。原王之必無講也。王若欲講,少割而有質;不然,必見欺』。此臣之所聞於魏也,原君之以是慮事也。周書曰『惟命不于常』,此言幸之不可数也。夫戦勝暴子,割八県,此非兵力之精也,又非計之工也,天幸為多矣。今又走芒卯,入北宅,以攻大梁,是以天幸自為常也。智者不然。臣聞魏氏悉其百県勝甲以上戍大梁,臣以為不下三十万。以三十万之衆守梁七仞之城,臣以為湯・武復生,不易攻也。夫軽背楚・趙之兵,陵七仞之城,戦三十万之衆,而志必挙之,臣以為自天地始分以至於今,未嘗有者也。攻而不抜,秦兵必罷,陶邑必亡,則前功必棄矣。今魏氏方疑,可以少割收也。原君逮楚・趙之兵未至於梁,亟以少割收魏。魏方疑而得以少割為利,必欲之,則君得所欲矣。楚・趙怒於魏之先己也,必争事秦,従以此散,而君後擇焉。且君之得地豈必以兵哉!割晋国,秦兵不攻,而魏必効絳・安邑。又為陶開両道,幾尽故宋,衛必効単父。秦兵可全,而君制之,何索而不得,何為而不成!原君熟慮之而無行危」。穣侯曰:「善」。乃罷梁囲。
  4. ^ 宋・呂祖謙『大事記』巻五:周赧王三十二年,秦昭王与楚頃襄王会于鄢,秋又会于穣。秦抜魏安成兵至大梁,燕・趙救之而還。秦丞相魏冄免。
  5. ^ 故事成語・綈袍恋恋の由来