青山 信昌(あおやま のぶまさ)は、戦国時代武将織田氏の家臣。通称与三右衛門(よそうえもん)で知られる。

 
青山信昌
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文16年9月22日1547年11月4日)?
別名 与三右衛門(通称
主君 織田信長
氏族 青山氏
吉次
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略歴

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天文11年(1542年)、織田信長が父信秀から那古野城を与えられ城主になった際、平手政秀林秀貞内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人[1]

天文16年(1547年)、織田氏の美濃国稲葉山城攻めに出陣し、斎藤道三の奇襲に遭い、織田信康など多くの将兵と共に討死した(加納口の戦い[2]。ただし、信昌が戦死した戦いが起きた時期を天文13年(1544年)とする説もあり、この場合には信長の元服以前に信昌は死去していて四長であることは成立しなくなる。

子の吉次(妻は前田利家の姪)はのちに前田利家に仕え、越中国魚津城の城主(城代)を務めた。 その後4代にわたり、越中国魚津城の城主(城代)を務める。 家紋は丸ノ内蔦。

資料

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1987年堤清二が母親の操(旧姓青山)の実家の古文書を漢文から古文に翻訳した内容によると、信昌は與三右衛門の弟ということになっている。記録は以下の内容。

青山與三右衛門(天文16年(1547年)9月22日討死)……織田信秀(信長の父)に仕えた信長の補佐をした。

青山與三左衛門信昌(大永6年(1526年)〜永禄7年(1564年))38歳没……與三右衛門の弟。織田軍記四家老の一人で信秀と信長に仕えた。稲葉山にて戦死。

(なお、この古文書を所有していた青山家は、江戸末期に養子を迎えたため信昌の血縁ではなくなっていたが、信長の家老の名が與三左衛門信昌であったと代々口伝していた。また、この青山家は江戸時代には蜂須賀家に仕えていた。)

自画像、書物、レガリア等は石川県立歴史博物館所蔵

脚注

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  1. ^ 太田牛一信長公記』 巻首 「吉法師殿御元服の事」
  2. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「美濃国へ乱入し五千討死の事」

登場作品

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関連項目

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