雲出藩
概要
編集豊臣家臣の蒔田広定が、1万石の大名としてこの地を治めていた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した広定は、毛利秀元や吉川広家らと共に伊勢侵攻の一翼を担ったため、西軍が9月15日の本戦で壊滅すると、高野山に蟄居した。しかし浅野長政・浅野幸長らの尽力もあって早くに罪を許され、本領を安堵された(このときのことは異説が多く、史書によっては改易されたとも、本領安堵されたとも、広定自身が逐電したとも言われており、定かではない)。
慶長10年(1605年)、広定は備中国浅尾藩に移封され、雲出藩は廃藩となり、その所領は富田信高と藤堂高虎の津藩領となった。
歴代藩主
編集- 蒔田家
1万石。外様。
- 蒔田広定(ひろさだ)〈従五位下、左衛門権佐〉