雨宮捷年
日本のプロ野球選手 (1945-)
雨宮 捷年(あまみや かつとし、1945年6月17日 - )は、山梨県塩山市上於曽(現:甲州市)[1]出身の元プロ野球選手(外野手)。
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 山梨県塩山市上於曽(現:甲州市) |
生年月日 | 1945年6月17日(79歳) |
身長 体重 |
178 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、捕手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト外 |
初出場 | 1968年 |
最終出場 | 1968年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
来歴・人物
編集中学時代は捕手、甲府商業高では1年から右翼手のレギュラー[1]。同期のエース大石勝彦(大洋-東映)を擁し、1963年夏の甲子園に出場する。山梨県勢初の3回戦まで進出するが、優勝した明星高に敗退[1]。2年下の控え投手に堀内恒夫がいたが、入学直後の堀内のブルペン捕手を務めたが、剛球を受け損なった際、恐怖心から捕手から外野手に転向したと言うエピソードがある。
高校卒業後は、神奈川大学に進学。1年から四番打者、右翼手で出場し、神奈川五大学野球で4回の優勝を経験[1]。1966年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進出するが、日本大学に延長11回1-2で敗退。4年春にベストナイン一塁手[2]。大学同期に五十嵐英夫投手がいる。
1967年にドラフト外で近鉄バファローズへ入団し、捕手に再転向[1]。1968年のジュニアオールスターゲームにも出場したが、視力の低下もあり1971年に引退した[1]。
引退後は帰郷し、家業の割烹「仲よし」を経営[1]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1968 | 近鉄 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:1年 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
背番号
編集- 28 (1968年 - 1970年)
- 48 (1971年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 雨宮捷年 - NPB.jp 日本野球機構