阿史那 懐道(あしな かいどう、拼音:Āshǐnà Huáidào、生没年不詳)は、西突厥の可汗。阿史那斛瑟羅の子。右屯衛大将軍・光禄卿・太僕卿・十姓可汗・濛池都護となる。
左衛大将軍兼平西軍大総管の阿史那斛瑟羅が亡くなると、武周は子の懐道を右武衛将軍とした。
長安4年(704年)、武周は懐道を十姓(オン・オク:西突厥)可汗・濛池都護とした。
神龍年間(705年 - 707年)、さらに懐道は右屯衛大将軍・光禄卿・太僕卿・十姓可汗・濛池都護となった[1]。
懐道が亡くなると、子の阿史那昕が後を継いで十姓可汗となる。
- 阿史那昕 - 十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護
- 交河公主 - 蘇禄の妻
- ^ 松田寿男はこの「濛池都護」という官名に注意し、「これはもともと継往絶可汗の兼領で、突騎施に没した弩失畢五姓の首領を意味する。十姓のうちの半数だけを統制するはずのこの可汗が、ここでは十姓可汗を号しているのである。このことは、唐の冊立した十姓可汗が、あくまでも突騎施に対抗する目的に終始した、いわば唐朝が立てた対抗馬にほかならないことを、語っているではないか」といい、「ところが、この最初の対抗馬はみごとに失敗したらしく、これに代わって、阿史那献の冊立となった次第である」としている。(松田寿男「碎葉と焉耆」)
- 『旧唐書』列伝一百四十四下 突厥下
- 『新唐書』列伝一百四十下 突厥下
- 佐口・山田・護訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社)