阮 文宝(げん ぶんほう、グエン・ヴァン・バオ、ベトナム語Nguyễn Văn Bảo / 阮文寶景興37年(1776年) - 景盛6年(1798年))は、西山朝大越の皇族。阮 光宝(グエン・クアン・バオ、ベトナム語Nguyễn Quang Bảo / 阮光寶)、阮 宝(げん ほう、グエン・バオ、ベトナム語Nguyễn Bảo / 阮寶)とも[1]

阮文宝
各種表記
漢字チュノム 阮文寶
北部発音: グエン・ヴァン・バオ
日本語読み: げん ぶんほう
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生涯

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初代皇帝の泰徳帝阮岳中国語版の子。西山朝はもともと泰徳帝が建て、歸仁に本拠を置いていたが、その弟であり武勲の誉れ高かった阮恵は、ドンダーの戦いと手を結んだ後黎朝を倒すにあたって自ら皇帝を称し、年号も光中と改め、富春で自立した。これにより兄弟の不仲は決定的になり、泰徳15年(1792年)に阮恵が没するとその子の阮光纘中国語版がそのまま皇位を継いだ(景盛帝)。

泰徳16年(1793年)に父帝が崩御すると、阮文宝は皇位には就けずに景盛帝に歸仁の領地を没収され、食邑として符離県を与えられて公へ改封され、小朝ベトナム語Tiểu Triều / 小朝)と号した[1][2]。これを不服とした阮文宝はその母とともに、敵である嘉定阮福映と密かに通じた[2]が明るみに出て、阮文誠中国語版率いる援軍が到着する前に、景盛帝が派兵した大総管黎文清ベトナム語版の軍に殺された[1][2]。死後、孝公ベトナム語Hiếu Công / 孝公)とされた。

出典

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  1. ^ a b c ベトナム史略』第2巻 自治の時代 第12章
  2. ^ a b c 大南正編列伝初集』巻三十 偽西列伝 阮文岳