関長誠
関 長誠(せき ながのぶ)は、備中国新見藩の第5代藩主。新見藩関家6代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享2年6月24日(1745年7月23日)? |
死没 | 文化7年2月11日(1810年3月15日) |
改名 | 長誠、東鶴翁(法号) |
墓所 | 東京都港区白金台の瑞聖寺 |
官位 | 従五位下備前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 備中新見藩主 |
氏族 | 関氏 |
父母 |
父:関政富、母:不詳 養父:関政辰 |
兄弟 | 長誠、政辰、富矩、浄願院、富昌、安藤広峯室、岩瀬氏以養女、金森可英養女 |
子 | 長輝、森長義、千衛子 |
略歴
編集生年は延享2年(1745年)6月24日生まれと言われているが、寛保2年(1742年)生まれという説もある。第3代藩主・関政富の長男であったが、父の死後は幼少の異母弟・政辰が家督を継いだ。これは、長誠の母が側室だったためである。そのため、30歳まで部屋住みの身分であった。しかし安永3年(1774年)に政辰が嗣子無くして死去すると、養子としてその家督を継いだ。
文武両道の名君であって新見生まれであり、豪放闊達な性格を生かし藩政改革を行なった。父・政富が創設した藩校・至誠舘を振興させ、財政再建を主とする藩政改革でも成功を収めた。このとき丸川松隠を招聘し、至誠舘の督学とし、また政治顧問として藩政に起用、殖産事業を行なった。
寛政7年(1795年)11月24日、家督を長男・長輝に譲って隠居し、東鶴翁と号した。文化7年(1810年)2月11日に死去した。享年66、もしくは享年69。
教養人としても一流で、学問に富み、筆に優れ、和歌も嗜む名君であった。