長谷川重成
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将
長谷川 重成 (はせがわ しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長8年6月18日(1603年7月26日) |
別名 | 甚兵衛(通称) |
戒名 | 守清 |
墓所 | 東京都港区愛宕の青松寺 |
主君 | 斎藤龍興→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康 |
氏族 | 長谷川氏 |
父母 | 父:長谷川重矩 |
兄弟 | 重則、重成 |
子 | 重次、娘(長谷川重勝妻)[1] |
略歴
編集長谷川重矩(越中守)の次男として生まれる。はじめは斎藤龍興に仕えていたが、後に織田信長に仕えた。天正3年(1575年)6月11日、旧領の美濃長森の二百貫文の地が兼松正吉に与えられているが、没収されたのか、移封なのかは明らかになっていない[2]。後に羽柴秀吉の家臣となり、1,500石を与えられ黄母衣衆に列した[3][4]。
その後、九州征伐に従軍、文禄元年(1592年)の朝鮮の役では肥前名護屋城に駐屯し、本丸の警備にあたった。慶長5年(1600年)の会津征伐では徳川家康に従軍、関ヶ原の戦いでは主力戦に参加し、戦後は徳川家に仕えた[3][4]。
慶長8年(1603年)6月18日、死去[3]。