長谷川正憲
長谷川 正憲(はせがわ まさのり、1890年(明治23年)11月3日[1] - 1964年(昭和39年)7月25日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。
長谷川 正憲 | |
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生誕 |
1890年11月3日 日本 富山県 |
死没 | 1964年7月25日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1942年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集1890年(明治23年)に富山県で生まれた[1]。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第35期卒業[1]。1932年(昭和8年)6月に北京駐屯歩兵隊長に就任し[2]、1936年(昭和11年)3月28日に第3師団司令部附となり[2]、名古屋医科大学に配属され[2]、8月1日に陸軍歩兵大佐に進級した[2]。1937年(昭和12年)7月に歩兵第47連隊長(第1軍・第6師団・歩兵第11旅団)に就任し[1][2]、日中戦争に出動[1]。保定会戦では千軍台で激戦を繰り広げ、石家荘会戦にも参加[1]。その後第10軍隷下に編入され[1]、杭州湾上陸作戦、南京攻略戦、広州での掃討戦と連戦し[1]、武漢作戦にも参加した[1]。
1938年(昭和13年)9月に留守第14師団司令部附となり[2]、1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級した[2]。同年9月12日に支那派遣軍総司令部附となり[1]、11月7日に新設された独立混成第17旅団[3](第13軍)の旅団長に11月15日に就任[1]。上海とその周辺の警備に任じつつ[1]、蘇北作戦などに参加した[1]。1941年(昭和16年)12月に樺太混成旅団長(北部軍)に就任し[1]、上敷香で国境守備に任じた[1]。1942年(昭和17年)12月1日に待命[1]、12月28日に予備役に編入された[1]。
栄典
編集- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 藤井非三四 著『知られざる兵団 帝国陸軍独立混成旅団史』国書刊行会、2020年。ISBN 4336065977。