長谷川延年

1803-1887, 江戸時代後期~明治期の日本の随筆家、目録家、篆刻家。『博愛堂集古印譜』著

長谷川延年(はせがわ えんねん、享和3年(1803年) – 明治20年(1887年3月7日)は、江戸時代後期から明治期の日本の随筆家・目録家・篆刻家道教を信仰し伝来する経典を渉猟。模刻して施本した。

は真人、初名を庸敕(つねとら)としたが後に長庸と改名。を守真・士樸・子惇、延年はで他に如一・山隠・楓洞、斎室名に鞱光斎・博愛堂・洞玄閣・幃間居など。通称式部。河内八尾の人。

略伝

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先祖は豊臣氏の家臣で後に三条家に仕えたという。延年は京都で生まれ父の事情ですぐに大坂に連れて来られ、松江町に住む。戸籍上、蒿善兵衛の長男となっているが、自身は長谷川慶三が父と述べている。

15歳の頃、伝来した道教の善書感応篇』・『陰隲文』を読み、衝撃を受ける。これ以降、生涯を通じて道教を信仰した。21歳の頃に善書の集大成『文帝全書』50巻を入手。この一部を模刻して施本した。そののちも善書の模刻写本を精緻に行っている。道教の信仰に全身全霊を傾けその精進のためとした。31歳(天保4年)の時、今まで模刻した善書をすべて合わせ綴じ『覚夢篇』として施本。35歳(天保8年)の時、大塩平八郎の乱によって居宅が焼失。模刻してきた版木を悉く失ってしまい、手元には『覚夢篇』一冊のみが残った。これ以後、施本活動は途絶えた。なお、大塩平八郎とは親交があったといわれる。

延年の篆刻は前川虚舟の印風に近く石鼓派に分類される。自刻印の印譜『鞱光斎篆刻印譜』は文政7年9月に最初の「乾巻」が編まれてから延べ50冊に至るまで累々と編まれた。これは善書の施本活動と同じく道教信仰の精進の現れで「諸悪莫作 衆善奉行」を為すことにほかならなかった。安政4年(1860年)にはついに日本における古印の集大成と称される『博愛堂集古印譜』を上梓する。これは藤原惺窩高芙蓉藤貞幹穂井田忠友源嵩年などの古印譜から700方余りの印影を集め、緻密に模刻した印譜である。

34歳のとき三条家に仕え、69歳にて致仕している。55歳で杉原氏世津を娶るが、子どもに恵まれず、後に養子を迎えている。享年86。法名釈了真。慶徳寺(大阪府八尾市南本町)の杉原家墓地に葬られる。

著作・施本

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  • 随筆『見聞雑録』
  • 印譜『鞱光斎篆刻印譜』
  • 『覚夢篇』天保4年
  • 印譜『博愛堂集古印譜』半紙本13冊・増補上下2冊、安政4年(1860年)
  • 『目録目書并地理書目漂流書目』慶応3年

別号一覧

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  • 不易・如一・山隠・楓洞・知足・大白廬・山隠口夫・陸沈・玄黙・荊石・光花・玉芝
  • 鞱光斎・博愛堂・洞玄閣・幃間居・赤霞楼・正柏山房・方徳園・朴庵主人・釆芝坊記・懐玉館主・椿屋・石亭・玉泉軒

蔵書印

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  • 鞱光斎
  • 長谷川氏寿刻
  • 浪華金城西長谷川不易
  • 隠口乃長谷川
  • 己母利久乃波渡世河
  • 長谷川蔵書記
  • 長谷河文庫
  • 楓洞架蔵記
  • 長庸祕笈
  • 幃間居蔵
  • 楓洞山人写字之記

参考文献

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関連項目

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