錦織俊政
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元徳3年/元弘元年9月28日(1331年10月30日) |
別名 | 義継[1] |
氏族 | 錦織氏 |
父母 | 父:錦織義通[1] |
兄弟 | 義右、義成、俊政[1] |
子 | 義右、義冬、成家、松寿丸[1] |
出自
編集錦織氏(錦部氏)は百済系の渡来氏族であり、佐竹氏一族の山本義経を祖とされる氏族[2]。『吾妻鏡』に見える錦織判官代は660年に滅亡した百済から河内に逃れて定住し、判官代を世襲した渡来人の末裔であり、俊政の先祖に当たる。錦織判官代は弓と相撲を能くした戦士で、承久の乱では官兵が敗北した際に院から逃亡した[3]。幕府は佐野太郎・次郎入道・三郎入道を呼び寄せ捕獲を命じるが捕獲できず、佐野の郎従を加勢させ漸く六波羅で捕獲した[3]。
一説によると俊政はもと三河蒲郡郡の出と伝わる[4]。蒲郡という名はもと蒲形と西郡を合わせた名とされるが、うち西郡は錦織の転訛か[4]。
河内錦部郡百済郷には本氏の祀った錦織神社がある[2]。古くは「水郡天王宮」、「牛頭天王」、「爾吾里宮天王」ともいわれ、素盞鳴命、品陀別命、菅原道真の三神を祀ったという[2]。現在の社殿は俊政が祖廟として建てたものと伝わる[2]。錦織氏は鎌倉時代、錦織郡の判官代として栄えた[2]。
経歴
編集院の判官代をつとめた俊政は、元徳3年/元弘元年(1331年)に後醍醐天皇の笠置挙兵に加わり、六波羅方の包囲軍7万と戦うが(元弘の乱)、同年9月28日に奇襲を受け、行宮が陥落した際、息子の義右と共に自刃した[5][6]。昭和3年(1928年)に従四位を贈せられた[6]。