鉞り鉄五郎

浦風部屋及び高砂部屋に所属した元力士

鉞り 鉄五郎(まさかり てつごろう、1867年10月7日慶應3年9月10日〉 - 1925年大正14年〉12月8日)は、現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)で浦風部屋及び高砂部屋に所属した大相撲力士[1]。本名は今関 鉄五郎。身長体重は不明。最高位は東前頭13枚目。色黒で無愛想な容貌から「」と言われた[2]

人物・略歴

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1886年1月初土俵(序ノ口)。1893年5月十両昇進。1894年6月新入幕。しかし、翌1895年1月場所前に大日本帝国陸軍入営し、近衛師団の軍夫になった。台湾に出征するも、マラリアに罹ってあえなく帰国。1895年5月場所で東十両張出筆頭で復帰するも2勝8敗と負け越し[1]、以後再入幕は叶わなかった。十両でも勝ち越す事はできず(3勝3敗11899年5月場所〉のタイ成績が最高)、1900年5月場所以降は幕下の地位に甘んじた。本場所では弱かったが、元々怪力だったこともあり、稽古場では滅法強かった[2]。初代高砂高砂浦五郎)が、晩年の鉞りを見て、部屋の幕下以下の力士達に「もし鉞りに勝てば、すぐ十枚目に昇進させる」と言った程でもあった。

1904年5月に源氏山頼五郎の渡米計画に参加して脱走。そのまま江戸相撲から引退し、京都相撲に加入した。大阪では堂島で株の仲買人をしていたと伝わっている。2代高砂(高見山宗五郎)の没後に発生した跡目争いに嫌気が差し、12代入間川両國梶之助)の勧誘もあって、國ヶ岩夘八と共に、東京に戻り世話人となった。

1925年12月8日に死去。58歳だった。

幕内通算2場所(うち1場所は陸軍入営のため、番付記載〈10休〉のみ) 2勝5敗2分11休の成績を残した。

改名歴は1回ある:鉞→ 鉞→ 鉞(元に戻した)

 出典 

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 関連項目 

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