鉄牛道機
江戸時代前期の黄檗宗の禅僧
鉄牛道機(てつぎゅう どうき、寛永5年7月26日(1628年8月25日) - 元禄13年8月20日(1700年10月2日))は、江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。号は自牧子。諡号は大慈普応国師。長門生まれ(石見とする異説もある)。
鉄牛道機 | |
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1628年 - 1700年 | |
諡号 | 大慈普応国師 |
生地 | 長門国(石見国説もあり) |
没地 | 下総国匝瑳郡福聚寺 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 龍峯寺、萬福寺、浄住寺 |
師 | 隠元隆琦、木庵性瑫 |
弟子 | 鉄崖道空 |
生涯
編集因幡国の龍峯寺(鳥取県鳥取市)で修行後[1]、1655年(明暦元年)長崎に滞在していた隠元隆琦に参禅し[1]、萬福寺創建に従事した。ついで隠元の高弟木庵性瑫に師事。1659年(満治2年)号を鉄牛、名を道機と改め[1]、その法を嗣いだ。
教禅一致の立場に立って教化につとめ、宇治黄檗山萬福寺の造営に尽くし、京都洛西葉室山浄住寺を中興、相模小田原藩主稲葉正則の招きで紹太寺[2]、江戸弘福寺などの開山となる。鉄眼道光の『大蔵経』の開版に協力し、下総匝瑳郡の椿海の干拓などの社会事業にも力を入れた。
椿海の干拓の功績により幕府から土地を寄進され、その地に福聚寺(千葉県東庄町)を建立した[3]。
1700年(元禄13年)同寺で没した[3]。