金邁淳
金 邁淳(キム・メスン、きん まいじゅん、朝鮮語: 김매순、1776年 - 1840年)は、李氏朝鮮の文臣、儒学者[1]。号は「台山」。『朱子大全箚疑問目標補』という『朱子文集』の注釈書を著わす[1]。
キム・メスン 金 邁淳 | |
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生誕 | 1776年 |
死没 | 1840年 |
職業 |
文臣 儒学者 |
金 邁淳 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김매순 |
漢字: | 金 邁淳 |
発音: | キム・メスン |
日本語読み: | きん まいじゅん |
研究
編集金邁淳は、日本の儒教について、基本的には低い評価しか与えていない[1]。
日本之俗。精技巧習戦闘,文學非其長,而□明季以來,稍稍有讀書稱經生者云。
日本の習俗は、戦闘には優れているが、文学は優れていない。しかし明末ごろより少しずつ読書をして儒学者と称する者が出てきている[1]。 — 増補與猶堂全書、巻八、題日本人論語訓傳
太宰春台の『論語古訓外伝』は、朝鮮にも伝わっていたが、金邁淳は『論語古訓外伝』に目を通し、以下のように評している[1]。
嘗見日本人太宰純所著論語訓傳,凡言仁必以安民釋之,凡言禮必以儀制釋之,力斥集註本心天理等訓,以爲釋氏空虚之學,又曰,私欲淨盡,乃禅家修菩薩之教,心之有私欲亦理也,若果淨盡,則非人也,其説與阮氏不謀而同。
嘗て日本人春台の著した『論語古訓外伝』を見たが、仁についていうと、必ず安民で解釈する。礼については必ず儀制と解釈する。努めて『集註』の本心天理等の解釈を斥けて、仏教の空虚の学と同じだとまで言っている。また私欲を浄化することをいうが、禅宗のいう菩提悟りの教えと同じだとも言っている。心にはもともと私欲があるのが理であって、それをなくしたら人ではないと主張するのは、清の学者阮元と全く同じだ[1]。 — 増補與猶堂全書、巻十七、闕餘散筆
但純則罵詈程朱,不遺餘力,又上及孟子,以性善爲謬説,而阮氏則雖於程朱内懐訕誹,而不欲顯肆口氣,孟子得與論語并擧,不失聖賢之尊者。
春台は程朱の悪口を言っており、余すところ無く、ついでに孟子まで批判して、性善説は間違いだと主張している。阮元は、朱子学について心の中で非難はしていたかもしれないが、具体的に言葉に表現して批判はしなかった。孟子は論語と並挙されていて、聖賢の尊を失っていない[1]。 — 増補與猶堂全書、巻十七、闕餘散筆
金邁淳は、太宰春台は程朱(程顥、程頤、朱熹)を罵って余すところがなく、さらに『孟子』まで批判してその性善説を誤まりとしたが、阮元は、程朱について心の内では批判的であっても、露わに口に出すことをせず、『孟子』も『論語』と同じく経書として扱い、敬意を示している、と主張している[1]。そして、太宰春台と阮元の違いが生じる理由を、日本は遠く海外の僻地にあり、君を尊んだり師を敬ったりする道徳性が全く欠如しており、自己本位で遠慮というものがない。対して中国は、儒教の伝統が存在するから『孟子』も尊ばれ道徳性も備わっている、と主張している。また、日本人の著作をそれほど多く読むことはできないが、学術が皆この著作のようなものであれば、ない方がましであり、夷狄が遠方でわけのわからない言葉で何を叫ぼうと、それを論ずる必要はない、と主張している[1]。
日本僻在海外、初無君師之教、故得以自行自止、無所顧憚、而中州則歴代崇奉、既有彝典、并世閑衞、不無正論。
日本は海の外の僻遠のところにあり、初めから君師の教えがない。故に勝手なことをやっており、はばかるところがない。しかし中国は歴代にわたり孔子・孟子を尊重しているので、心の中に定まった規則があり、正論はなくならない[1]。 — 増補與猶堂全書、巻十七、闕餘散筆
日本書籍,余不能多見,而使其學術皆如此,則眞所謂不如亡也,蠻夷鴂舌,不聞大道,啁啾咿嚶,自鳴一隅,誠若無足道者。
日本の書籍を私は多く見ることはできないが、その学術はみなこの程度であるからなくともいい。夷狄が遠方でわけのわからない言葉で何を叫ぼうと、それを論ずる必要はない[1]。 — 増補與猶堂全書、巻八、題日本人論語訓傳