金福寺 (京都府京丹波町)
京都府船井郡京丹波町にある浄土真宗本願寺派の寺院
金福寺(こんぷくじ)は、京都府船井郡京丹波町にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は摂取山。本尊は阿弥陀如来。山門に「楠公史跡」と刻まれた石碑が建立されている。
金福寺 | |
---|---|
所在地 | 京都府船井郡京丹波町新水戸イカガ谷42 |
位置 | 北緯35度07分53.9秒 東経135度25分39.5秒 / 北緯35.131639度 東経135.427639度座標: 北緯35度07分53.9秒 東経135度25分39.5秒 / 北緯35.131639度 東経135.427639度 |
山号 | 摂取山 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 不詳(恵心僧都による創建伝承) |
開基 |
釈了空(楠正保) 慶長2年(1597年)[1] |
正式名 | 摂取山金福寺 |
法人番号 | 5130005007411 |
歴史
編集恵心僧都によって京・西六条に創建されたと伝わる。同寺に所蔵されている年代不詳の「諸願控帳」には、同寺を開基した楠三郎左衛門正保は、天正年間、本願寺第11代門首・顕如の懇請により、丹波から3千の軍勢を引き連れ、雑賀衆の軍師・鈴木重幸のもとで織田軍と戦ったとされる。慶長7年(1602年)8月27日、第12代宗主・准如に帰順。了空と号し、天台宗より浄土真宗に改宗。以来、同寺の住職は楠氏により代々世襲される。また、西本願寺末の中本山として畿内を中心に約800余の末寺を抱え、隆盛を極めたという。明治元年(1868年)に火災に遭い、明治中期に西六条天使通木材屋から現在地の船井郡新水戸村に移転。江戸期、新水戸村の御堂は一説教所であったが、江戸中期の福岡藩士・貝原益軒の著した「北海記行」に由緒ある寺として新水戸の御堂の記述がある。
参考文献
編集- 『金福寺についての一考察 - 北播磨金福末寺院の展開を視野にいれて』和田幸司(法政論叢、2003)