金山城 (陸奥国)
金山城(かねやまじょう)、または寝牛城、臥牛城[3]は、宮城県伊具郡(陸奥国伊具郡)丸森町金山にあった日本の城。仙台藩における元和の一国一城令後の21要害の一つで、後に金山要害と称した。丸森町指定史跡[2]。
金山城 (宮城県) | |
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本丸石垣 | |
別名 | 寝牛城、臥牛城 |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 相馬氏 |
築城年 | 1564年(永禄7年)または1565年(永禄8年)[1] |
遺構 | 曲輪、土塁、石垣 |
指定文化財 | 丸森町指定史跡[2] |
位置 | 北緯37度53分49.3秒 東経140度48分09.8秒 / 北緯37.897028度 東経140.802722度座標: 北緯37度53分49.3秒 東経140度48分09.8秒 / 北緯37.897028度 東経140.802722度 |
地図 |
概要
編集金山城は標高117メートルの「お舘山」山頂にある山城で、1564年(永禄7年)[3]または65年(永禄8年)[1]に相馬氏の家臣井戸川将監、藤橋胤泰が築城したと言われる。その後伊達氏と相馬氏の争奪戦が展開された[3]。
天正9年(1581年)には伊達政宗が初陣を飾り、同12年(1584年)に伊達氏の領有となった。
そして、金山城は政宗の家臣中島宗求が2千石で拝領した。江戸時代は元和の一国一城令により金山要害と称し、引き続き中島氏が明治維新まで居住した。
明治元年(1868年)戊辰戦争後に一度南部氏が白石藩に転封され、補修がされたが、後に幕末に勤皇派としていた旧城主の中島氏に払い下げられた。
現在は、「お舘山公園」となっており、本丸跡には1588年(天正16年)ごろ築造とされる石垣が残り[3]、往時の面影を伝えている。