野網 和三郎(のあみ わさぶろう、1908年明治41年〉3月11日 - 1969年昭和44年〉10月2日)は、日本水産[1]香川県引田町(現在の東かがわ市)出身[1]。愛称は、「ワーサン」[2]。日本で初めてブリ(ハマチ)の養殖(畜養)に成功したことで知られる[3][4]

のあみわさぶろう

野網和三郎
野網和三郎の写真
生誕 (1908-03-11) 1908年3月11日
香川県引田町
死没 (1969-10-02) 1969年10月2日(61歳没)
死因 内臓ガン
国籍 日本の旗 日本
別名 ワーサン
著名な実績 日本で初めてブリ(ハマチ)の養殖に成功。
テンプレートを表示

経歴

編集

野網和三郎は1908年3月11日に香川県大川郡引田の「まるさ」と呼ばれる網元の三男として生まれる[5][6][* 1]。小学校に入学すると、祖父を亡くし、翌年には叔父をコレラで亡くしている[7]。そのため、叔父の息子を野網家で預かることになり、和三郎は母の実家に二年間ほど預けられた[8]

その後、親に頼み込み[9]島根県水産学校に進み、後に三重県志摩水産学校に転校して卒業した[10]1927年(昭和2年)、郷里の香川県引田町の安戸池にてハマチの養殖に携わり[1]、同池で海水を用いた養魚の実験をおこなった[2]。当時の養魚はウナギコイ等の淡水魚に制限されていたが[2]、野網は初めてハマチを養殖したことで一躍名を馳せた[2][* 2]。ハマチ以外にも、真珠牡蠣サバアジ等の多くの魚介類の養殖にも携わった[2]

太平洋戦争の影響もあり、養殖を一時中断した。1943年には、海軍に召集され、翌年の7月に父が亡くなる[11]。終戦後に、香川県水産資材協会の理事となる[11]。安戸池を再開させるため、アメリカの日本進駐軍の水産関係者や、当時の大臣である広川弘禅鈴木善幸のもとにも訪れ、補助交付金を頼んでいる[12]1961年(昭和36年)に日本かん水養魚協会会長に就任し[1]、以後、香川県かん水養魚協会会長や引田漁業会長等を歴任し[2]、日本における養魚の普及に貢献した[2]。香川県水産試験場には没後の2010年3月に「野網和三郎記念室」が開設され、遺品などが展示されている[3]

人物・評価

編集

著書

編集
  • 『海を拓く安戸池』[13]

賞・顕彰歴

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 1914年説もある。
  2. ^ ハマチ養殖に成功した時期について、香川県庁広報誌『さぬき野』の記事では1928年(昭和3年)に「餌付けに成功」と記され[2]、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は1935年(昭和10年)[1]としている。

出典

編集
  1. ^ a b c d e 野網和三郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E7%B6%B2%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8Eコトバンクより2021年1月31日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j あっぱれ香川【人物伝】 野網和三郎 - 香川県広報誌『さぬき野』2005年夏号[リンク切れ]
  3. ^ a b c d ハマチ養殖80周年記念事業”. ハマチ養殖80周年記念事業. 香川県庁. 2021年1月31日閲覧。
  4. ^ 影山昇「野網和三郎と日本最初のハマチ養殖事業」『東京水産大学論集』第31号、東京水産大学、1996年3月、1-28頁、ISSN 05638372NAID 40002595690 
  5. ^ 安戸池のほとりに立つ”. 2021年5月10日閲覧。
  6. ^ 魚にささげた人生「野網和三郎」”. 2021年5月10日閲覧。
  7. ^ 香川 1882、12-16頁
  8. ^ 香川 1882、19-26頁
  9. ^ 香川 1882、28-38頁
  10. ^ 野網和三郎「かん水養殖所見」『水産増殖』第7巻第4号、日本水産増殖学会、1960年5月、85-89頁、doi:10.11233/aquaculturesci1953.7.4_85ISSN 0371-4217NAID 1300037151652021年7月1日閲覧 
  11. ^ a b 香川 1882、166頁
  12. ^ 香川 1882, pp. 167
  13. ^ 野網和三郎『養魚秘録海を拓く安戸池』みなと新聞社、下関、1969年https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I060610499-00 

参考文献

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集