野上哲男
野上 哲男(のがみ てつお、昭和4年(1929年)5月2日[1] - 平成22年(2010年)9月6日[2])は、日本のヤクザ。
来歴
編集昭和52年(1977年)5月、三代目山口組(組長は田岡一雄)二代目吉川組を継承した[1]。
同月、田岡一雄から盃をもらい、山口組直参になった[1]。
昭和56年(1981年)7月、山口組二代目吉川組・野上哲男組長と二代目旭琉会・多和田真山は、五分の兄弟分となった。これにより、第4次沖縄抗争は終結した。
昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。
平成元年(1989年)渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。野上哲男は、五代目山口組総本部副本部長となった。
平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。
平成19年(2007年)6月5日、山口組定例会で、野上哲男の六代目山口組(組長は司忍)最高顧問への就任が発表された[1]。
平成22年(2010年)9月6日、死去。満81歳没。
関連項目
編集脚注
編集- ^ a b c d 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.40
- ^ 山口組最高顧問・野上組長が死去「山一抗争」で手腕発揮 夕刊フジ 2010年9月6日
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.4
参考文献
編集- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
- 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
その他の役職 | ||
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先代 吉川勇次 |
吉川組組長 2代目:1977 - 2010 |
次代 南匡樹 |
先代 岸本才三 |
六代目山口組最高顧問 2007 - 2010 |
次代 (未定) |