重慶府(じゅうけいふ)は、中国にかつて存在した宋代から民国初年にかけて、現在の重慶市一帯に設置された。

四川省の重慶府の位置(1820年)

概要

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1102年崇寧元年)、北宋により渝州恭州と改称された。1189年淳熙16年)、南宋により恭州が重慶府に昇格した。重慶府は夔州路に属し、江津璧山の3県を管轄した。羈縻州として溱州があり、溱州は栄懿扶歓の2県を管轄した[1]

1279年至元16年)、により重慶府は重慶路総管府と改められた。重慶路は四川等処行中書省に属し、録事司と巴・江津・南川の3県と瀘州に属する江安納渓合江の3県と忠州に属する臨江南賓豊都の3県と合州に属する銅梁定遠石照の3県と涪州に属する武竜県、合わせて1司3県4州州領10県を管轄した[2]

1371年洪武4年)、により重慶路は重慶府と改められた。重慶府は四川省に属し、直属の巴・江津・璧山・永川栄昌大足安居綦江・南川・長寿黔江の11県と合州に属する銅梁・定遠の2県と忠州に属する酆都墊江の2県と涪州に属する武隆彭水の2県、合わせて3州17県を管轄した[3]

のとき、重慶府は四川省に属し、巴・江津・璧山・永川・栄昌・大足・綦江・南川・長寿・銅梁・定遠・合州・涪州・江北庁の1庁2州10県を管轄した[4]

1913年中華民国により重慶府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 宋史』地理志五
  2. ^ 元史』地理志三
  3. ^ 明史』地理志四
  4. ^ 清史稿』地理志十六