酒人内親王
酒人内親王(さかひとないしんのう)は、光仁天皇の皇女。母は皇后・井上内親王。伊勢斎王、のち桓武天皇妃。
酒人内親王 | |
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
生誕 | 天平勝宝6年(754年) |
薨去 | 天長6年8月20日(829年9月25日) |
位階 | 二品 |
父母 | 父:光仁天皇、母:井上内親王 |
兄弟 | 能登内親王、開成、桓武天皇、早良親王、薭田親王、酒人内親王、他戸親王、弥努摩内親王、広根諸勝 |
夫 | 桓武天皇 |
子 |
朝原内親王 養子:式部卿某親王、大蔵卿某親王、安勅内親王 |
斎宮 | 宝亀3年11月13日(772年12月11日)-宝亀6年4月27日(775年5月30日) |
特記 事項 | 后妃身分は妃 |
略伝
編集宝亀元年(770年)、父・白壁王(光仁天皇)が即位したため、11月6日に三品に叙せられる。宝亀3年(772年)3月2日には母の井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、5月27日には連座して弟の他戸親王も皇太子を廃されてしまうが、この一連の事件の最中である11月13日、突如19歳で伊勢の斎王に卜定、潔斎のためしばらく籠もる宮として春日斎宮に住まうことになる。宝亀5年(774年)9月3日、潔斎を終えて伊勢へ下向し、翌宝亀6年(775年)4月27日、井上内親王と他戸親王の幽閉先での急逝により退下した。
帰京後に自分の母と弟の幽閉と死によって皇太子の座についた異母兄・山部親王(後の桓武天皇)の妃(ひ)となった。これには聖武天皇の血筋との結びつきを求める光仁天皇や桓武天皇の願望が含められていたとされる[1]。なお、信憑性にはやや欠けるものの、『水鏡』に光仁天皇が酒人内親王の立太子を検討していたとの記述があり、事実であれば桓武天皇やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあったことになる。宝亀10年(779年)に朝原内親王を産むが、この朝原内親王ものちに斎王に卜定されたため、祖母・母・娘と3代にわたり斎王を務めたことになる。朝原内親王が弘仁8年(817年)に薨去すると、母として一人娘の死去をたいへんに悲しんだようで、晩年の弘仁14年(823年)1月20日、空海に代作させた遺言状にもその悲しみを表している[2]。この遺言状で、内親王は養子にした式部卿、大蔵卿、安勅内親王の3親王に、葬儀は火葬ではなく土葬とすること、ともに埋葬する品々はわずかな物でよいこと、所領地は全て3人と僧の仁主に分け与えること、その他の物は長年仕えてくれた家司と侍女たちに分け与えること、と述べ、天長6年8月20日、76歳で薨じた。彼女の死によって聖武天皇の系統に繋がる皇族は完全にいなくなった。実に8代の天皇の治世にわたるその生涯は、政争に翻弄された波乱のものであったといえる。[独自研究?]
人物
編集『日本後紀』逸文天長6年8月丁卯(20日)条(『東大寺要録』巻10所引)の薨伝によると、
容貌殊麗。柔質窈窕。(中略)(桓武天皇の)寵幸方盛。(中略)性倨傲にして、情操修まらず。天皇禁ぜずして、その欲する所に任す。婬行(あるいは媱行)いよいよ増して、自制する事能はず
(大変に美しい容貌で、その体つきはなよやかである。桓武天皇の寵愛は深く、その性格はわがままで気まぐれ。しかし、天皇はこれを咎めず、酒人内親王の思いどおりにさせた。その婬行(あるいは媱行)はいよいよ増して、自制することはできなかった)
と伝えられている。また『一代要記』には「天皇に最も寵愛された」と記されている。
上記薨伝の「婬行(あるいは媱行)」の部分については、これを「婬行」として「性的にしまりがなかった女性」と解するのが通説であるが、『東大寺要録』の板本や刊本には「媱行」と作るものも多く、「媱」の字は「肩を曲げて歩くさま」、そこから転じて「見目良い」「美しく舞う」「戯れる」といった意味もある。むしろ浪費が激しく、豪華絢爛な交友や、万燈会などの華やかな催しを好んだ女性であったのであろう。[独自研究?]
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 岩下紀之 「桓武天皇の後宮」『愛知淑徳大学国語国文』36号、愛知淑徳大学国文学会、2013年 NAID 120005270941
- 森田悌 「日本後紀」(上中下巻)講談社学術文庫、2006年ISBN 9784061597877 (上巻)/ISBN 9784061597884 (中巻)/ISBN 9784061597891 (下巻)
外部リンク
編集- 第16話 ツンデレ斎王・酒人内親王-斎宮歴史博物館
- 酒人内親王献入帳-宮内庁
- 酒 - 国文学研究資料館蔵書印データベース 2021年5月2日閲覧。