近衛基嗣
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。従一位・関白、左大臣。後村上天皇出仕は正平一統時。
(近衞基嗣から転送)
近衛 基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣・近衛経平の子。官位は従一位・関白、左大臣。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代(北朝) |
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生誕 | 嘉元3年(1305年) |
死没 | 文和3年4月8日(1354年5月1日) |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 |
花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→(後醍醐天皇)→光明天皇→崇光天皇→(後村上天皇)→後光厳天皇 量仁親王(東宮職) |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛経平、母:兵部卿(藤原公頼の娘) |
兄弟 | 基嗣、多羅尾師俊、慈伝、静深 |
妻 | 後醍醐天皇の皇女、藤井嗣実の娘 |
子 | 道嗣 |
特記 事項 | 後村上天皇出仕は正平一統時 |
経歴
編集当時近衛家の系譜は父・経平の代で分裂しており、基嗣はその嫡流の座を従兄の経忠(経平の兄・家平の子)と争った。出世争いは年長の経忠が先んじ、元徳2年(1330年)、後醍醐朝で関白任官する(短期間で辞官)。基嗣はその後光厳朝で左大臣に至るが、正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の重祚と前後して解任される。
建武政権で登用された経忠は政権崩壊後、光明朝で関白に任ぜられる(建武政権においては、関白は廃止されていた)が、吉野に脱出して南朝を打ち立てた後醍醐天皇の下に馳せ参ずる。京の朝廷は経忠を解任し、後任の関白に基嗣を任じた。基嗣は室町幕府の誕生に関白として立ち会い、辞官後も内覧として朝政に加わった。経忠の一家は南朝の衰微と共に没落し、以降近衛家は基嗣の子孫を嫡流として続いてゆく。
官職歴
編集- 正和4年8月20日(1315年9月19日) - 正和5年正月13日(1316年2月7日) 右近衛少将
- 正和5年正月13日(1316年2月7日) - 文保元年3月27日(1317年5月8日) 近江介
- 正和5年正月13日(1316年2月7日) - 元応2年3月24日(1320年5月3日) 右近衛中将
- 文保元年3月27日(1317年5月8日) - ? 近江権守
- 元応元年6月14日(1319年7月2日) - 元応2年3月24日(1320年5月3日) 権中納言
- 元応2年3月24日(1320年5月3日) - 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) 権大納言
- 嘉暦元年7月24日(1326年8月22日) - 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) 春宮大夫(量仁親王)
- 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) - 元徳2年2月26日(1330年3月16日) 内大臣
- 嘉暦2年7月16日(1327年8月3日) - 元徳元年9月26日(1329年10月19日) 左近衛大将
- 元徳2年2月26日(1330年3月16日) - 元徳3年正月30日(1331年3月9日) 右大臣
- 元徳2年3月22日(1330年4月10日) - 元弘元年9月20日(1331年10月22日) 東宮傅(量仁親王)
- 元徳3年2月1日(1331年3月10日) - 正慶2年5月17日(1333年6月29日) 左大臣
- 建武4年4月16日(1337年5月16日) - 建武5年5月19日(1338年6月7日) 関白(光明天皇)
位階歴
編集系譜
編集出典
編集- 『公卿補任』
公職 | ||
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先代 近衛経忠 |
関白(北朝) 1337 - 1338 |
次代 一条経通 |
先代 鷹司冬教 |
左大臣 1331 - 1333 |
次代 二条道平 |
先代 近衛経忠 |
東宮傅(量仁親王) 1330 - 1331 |
次代 東宮職廃止(量仁親王即位のため) |
先代 近衛経忠 |
右大臣 1330 - 1331 |
次代 久我長通 |
先代 西園寺実衡 |
内大臣 1326 - 1330 |
次代 久我長通 |
先代 洞院公賢 |
春宮大夫(量仁親王) 1326 |
次代 西園寺公宗 |
軍職 | ||
先代 大宮季衡 |
左近衛大将 1327 - 1329 |
次代 久我長通 |