辻 (那覇市)
辻(つじ、琉:チージ)は、沖縄県那覇市の地名。辻一丁目から辻三丁目まである。辻は風俗街としての性質を担っており、太平洋戦争(大東亜戦争)中の空襲で焼失するまで、郭所(遊廓)として栄えた。郵便番号は900-0037[1]。
概要
編集沖縄県庁舎、国際通り方面から見て、国道58号を挟んで西部に位置し、西・久米・若狭と隣接し、東を若狭大通り、西を沖縄ガス通りとする一帯である。近隣地域は歓楽街の様相を呈しているが、辻自体は風俗街としての要素が強い。太平洋戦争(大東亜戦争)中の空襲で焼失するまでは郭所(遊廓)として栄えた。地域内は一丁目と二丁目と三丁目とに分かれており、那覇市の都市計画では地内は商業地域に割り当てられている[2]が、市営住宅や老人福祉施設もあり、小学校学区は那覇市立天妃小学校[1]である。また、若狭との境目近辺には波上洞穴遺跡、セーコージヤマ遺跡などが存在する。
辻二丁目はソープランドを初めとした風俗店、ラブホテルの目立つ地域となっており、沖縄の夜遊び・性風俗情報誌で「泡店」として掲載されているものだけでも40軒前後にのぼる[3][* 1][4]。
なお、「辻」の字は当て字であり、標準的な日本語で言う所の辻の意味は全く持ち合わせていない。「つじ」あるいは「チージ」は、琉球語で「頂き」「高所」などを意味する言葉である[5]。
歴史
編集先史時代と海岸線の変遷
編集那覇軍港から泊近辺に至るこの一帯は、基底部分こそ琉球石灰岩基底面に属し堅強なるものの、その上には軟弱な粘土を主体としている沖積層が厚く堆積しており、現在も地盤沈下が危惧される地域である[6]。また、海抜は低く、縄文時代の縄文海進期(約6000年前)に於いては海面下にあったと見られ、出土した化石や堆積物からもこれをうかがい知ることができる。海面自体は約1000年前からほぼ変化がないとされるが、その時点ではこの一帯は入江状の地形に大小の島が浮かんでいると言った状態であった。地形図によれば1700年頃の辻と周辺地域は比較的大きな島を形成していたと見られる。マシュー・ペリーの残した1853年の測量図では、東シナ海と漫湖を隔てるような島が描かれている。これ以降の時期に漫湖をはじめとする内海の本格的な埋め立てが始まったとされる[7]。
戦前
編集元々は一面の荒野であったが、1672年、琉球王国の摂政、羽地朝秀により、琉球各地に多数居た尾類(ジュリ、技芸の教養を身に付け、冊封使や首里の貴人、那覇商人を相手にもてなしをした女性)を集め、辻、仲島(ナカシマ、現在の那覇バスターミナル付近)[8]、その後渡地(ワタンジ、那覇港南側の沖縄製粉近辺)[8]に遊廓が置かれた。薩摩、中華圏との貿易の欠かせなかった琉球にとって、冊封、薩摩の在番役人、商人などの慰安として、また、一般の婦女子を性犯罪から救うため、そして風紀の管理のために必要な措置であった。遊廓の楼名には、琉球風のものだけではなく、「海老爺」など中華風のものもみられた[9]。なお、羽地は1667年に売春の撤廃を試みているがこれは叶わず、やむなくこれを管理することで風紀の維持を求めるに至ったと考えられている。以上のように辻村は人工的な村であり、一般の農村で見られるような血縁集団などは本質的には見られず、冠、婚、葬祭も行われない[* 2][10]。
明治維新後、1879年(明治12年)の琉球処分及び廃藩置県により正式に大日本帝国沖縄県となると、各種の規制法や性病検査の義務化などの適用を受けるようになった。また同時にとりたてて裕福でもない一般庶民も多く出入りするようになった。また二十日正月に行われる「ジュリ馬行列」なる祭りは大人気であり、最寄り駅である沖縄電気路面電車の西武門駅は見物客で活気を見せた。
1908年になると仲島、渡地が辻に合併し[* 3][11]、沖縄唯一の遊廓街となった辻は隆盛を極め、1934年(昭和9年)頃には176軒以上の遊廓が建ち並び、政財界を始めとしたありとあらゆる階層の男達が出入りするようになった。その結果、大正年間には沖縄県の年間予算の5%に及ぶ税収があったとも言われるほどの活況を呈し[12]、沖縄県の一大産業と化した。
しかし太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、1944年(昭和19年)10月10日の空襲(十・十空襲)で焼き尽くされ、遊廓街としての辻は、その歴史に幕を下ろすこととなった。この際、一部のジュリは慰安婦として日本軍に徴用されたとされる[* 4]。
戦後
編集辻の焼失後も、沖縄各所において主に駐留米兵を相手に、パンパン、ハニー(アメリカ兵の恋人)、私娼による売春は続けられ、事実上黙認されていた。この頃には特に本島中部では朝鮮戦争特需[* 5]に沸いており、その上戦中から米兵による性犯罪が多発していたこともあり[* 6]、男達の性欲処理のために歓楽街の復活が求められた[* 7][13]。また、兵士への性感染症の蔓延を防ぐため、性病取締規則が公布されている。
ただし一連の運動は主に本島中部、コザ近辺が発端であり、現在の辻の成立に関する資料は多くはない。1952年までの間、辻近辺は立ち入り禁止区域とされていたが、1952年12月に料亭「松の下」が建設され、辻の再興が始まった。上原栄子らの活動により、また、ベトナム戦争景気などもあり、戦後も辻界隈は特殊地区として発展していくこととなる[14]。
1969年の資料では、バー、クラブ、料亭などが多く見られるとされている[15]。また、この時期には沖縄全土で少なくとも7400人程度の売春婦が見られ、その内、辻一帯には約800人の売春婦が存在したとされている[* 8][16]。
1970年に売春防止法が制定され、1972年5月15日の沖縄返還によって日本の法律が適用されると、表向きには売春は行われなくなった。2010年現在はソープランドが多く見られている。
また、一時期はソープランドだけではなくステーキハウスが多いことでも著名であったが、那覇港の旅客が那覇空港に奪われてしまった為か、往時ほどの活気は無く、跡地が風俗店の無料案内所となっている例が散見される[17]。
遊廓
編集遊廓とは言えその中で行われる行為が売春、即ち性行為のみではないことは、他の遊廓と変わらず、琉球の辻でもやはり言えたことである。遊廓は「花ぬ島」とも呼ばれ、琉球独特の歌謡や舞踏、料理によるもてなしがなされていた。辻のジュリは上方や金沢の舞妓、芸妓のような性質が強かったとされている。また、遊女は「尾類」または「侏𠌯(ニンベンに离)」(ジュリ、またはヅリ、ズリ。どちらも当て字)[* 9]と呼ばれていた。辻内部は南部を前村渠(メーンダカリ)、北部を上村渠(ウィンダカリ)とし、独自の自治社会を培っており、1878年(明治11年)の『琉球漫録』によれば、「妓家200戸余、大なるは20名、小なるは5、6名にすぎず、娼妓凡そ1500人」と言った規模であった。
公的には禁止されていたものの、貧しい家庭から少女が売りに出されるという事態が多く見られ、専門の仲買人も居た。これを「辻売り」(チージウイ)と言った[* 10]。特にソテツ地獄などの恐慌時には人身売買が多かったとされる。少女たちは早ければ4、5歳でに売りに出され、遊廓のしきたりや芸などを仕込まれ、一般的には14、5歳から売春を開始した。ジュリにとって一世一代の晴れ舞台と言うことで、初客に選ばれる男性は相当な資産や名声のある者が選ばれ、赤飯を炊いた上で祝言を交わしたと言う[* 11]。また、売られた遊女たちも自らの稼ぎで自らを買い戻して自由の身になることも可能であった。
遊女はある程度外部と隔絶された生活を強いられていた。辻では遊女たちによる大幅な自治が認められ、その運営は元老の合議によって選ばれる姉盛前(シーザムイメ)と、それを補佐する妹盛前(ウツトムイメ)のもと、ほぼ全て女性によって行われていた[* 12][* 13]。そのほか、辻言葉、尾類言葉などと言われる独特の言い回しも発達した。ジュリは歳を取ると、自らを買い戻した後の余分の貯蓄から若い女性を借り入れ抱母(アンマー、ジュリアンマー)となり、新たに店を構えることがよく見られ、抱母のほとんどは遊女出身であった[* 14]。ただし前借金には月あたり1分5厘の利息が取られ、華やかに見えるジュリたちも実入りは売り上げの2、3割、実家へ仕送りを続ける場合もある上に、主食はサツマイモと言った有様で、その返済は決して楽ではなかった[* 15][18]。独立後も辻に残る場合には、その抱親と共同体を形成し、客との間に産まれた子なども含め、緊密な関係が築かれていた[* 16][19]。
風紀の乱れを避けるために役人の遊廓への立ち入り禁止令が出たが守られず、それではと今度は遊女の外出が禁止された時期もあったが、やはりこれも有名無実と化し[* 17]、遊廓外の宿に(売春のために)出入りするなどの例も見られていた。馴染みともなれば客の家族とも親類同然の付き合いが行われていたほか、1934年の資料では辻の遊女たちが自由に外出し遊び回っているとされている。
また、日本の他の地方の一般的な遊廓では、客席において遊女が客に食事をねだり、それによって利益を得ることが当たり前であったが、辻においてはそのような振る舞いは見られなかった。病に伏した時は手厚い看護がなされ、子を産む事も比較的自由で、先述の共同体によりよく面倒が見られているなど、独特な風習が持たれており、辻の遊女の待遇はあくまで相対的にではあるにせよ、恵まれていた部類に入るとみられる。前述した初御客の際などは遊女の一世一代の初行事として、抱母は調査、準備に万全を尽くし、神仏にまで祈願し、自ら不寝番まで行った。また、客選びについて大きな自主性が与えられると同時に、琉球女は情が深いものであり、身体を売るだけではなく、上客とは一心同体となりその成功を応援し、時として大恋愛に発展する場合も多く見られた[20]。そう言った事情であったので、新しい客を取る際にはいちげんさんはお断り、と、仲人が必要とされる例も多かった。この辺りは辻が大きな自治が認められて居た点、抱母や有力者の多くが自らも遊女であった点が、この独特な風習を形づくったと思われる[21]。
なお辻は1886年(明治19年)と1901年(明治34年)9月16日[* 18]、更に1919年(大正8年)と、3度に渡ってに大火に見舞われている。
ニービチジュリ
編集沖縄には結婚式の夜、新郎の友人たちが集って、新郎を辻の遊廓に連れ込む習慣が有り、これをニービチジュリと言った。新郎の性行為の腕前のほどを鍛えて貰おうと言った意味のある習慣だったと見られている。
生殖器崇拝
編集琉球においても男根石、女陰石への信仰が見られている。本来はやはり豊作を祈願してのものであったと見られているが、世間一般でかような崇拝が慎まれる傾向にあった中でも、辻の拝所には相変わらず巨大な男根石が祀られていた[22]。
交通
編集最寄り駅はゆいレール旭橋駅。辻の主要部までは徒歩で十数分、タクシーで数分程度。バスの場合は三重城バス停行きの市内線1,2,3,5,15,45系統が利用可能であり、特に沖縄県庁前または県庁前駅からは市内線1,2,5系統が辻、波の上方面行きとなる。
その他
編集- 波の上自動車学校
- 辻老人憩の家 - 社会福祉法人陽風会の運営する老人福祉施設。
- 那覇ビーチサイドホテル
- BiBi Hotel 波之上
脚注
編集- ^ 辻の若干北部に位置する前島にはピンクサロンが、松山ではキャバクラが多く見られる。ちなみに那覇市内では他に栄町が、沖縄本島中部ではコザに近い吉原が色町とされている。
- ^ 男子が居ないので冠は無く、ジュリは辻に居ながら結婚することはなく、死亡したジュリは郷里に帰して葬儀を行う。
- ^ 遊廓の統合についての資料は戦災で焼失のため見付かっていない。恐らくは、売春行為を白眼視する世論に屈した沖縄県当局が、取締や封じ込めの便のために行ったのではないかと推察されている。
- ^ どの程度の人数が徴用されたのか、具体的に述べた資料は未見。
- ^ 米兵だけではなく基地設営のため、内地からの土木作業員なども多く見られた
- ^ 特に有名な事件として、1955年9月3日に6歳の女児が被害に遭った由美子ちゃん事件が挙げられる。
- ^ 既に売春に手を染めていた女性にとって渡りに船であったと同時に、婦人団体からは「一般女性への防波堤となる」という賛成意見も見られた。しかしやはり「売春自体女性蔑視であり許容できない」という反対意見も見られた。結局やむを得ずコザの「八重島」に特殊地帯が作られることになった。
- ^ 琉球政府警察局調べ。那覇署管轄では他に桜町一帯が760人など。コザ署管轄ではセンター胡屋が931人、吉原が588人などで、那覇よりコザの方が売春市場の規模は大きかった。なお、1975年12月末時点で中央保健所には25件のトルコ風呂が登録されていた。
- ^ 一般女性のことはジュクと呼ぶ。
- ^ 因みに少年は糸満に売られ漁師にされた。糸満売り参照。少女が糸満に売りに出される場合もあった。
- ^ なお、1946年2月8日にはマッカーサーにより人身売買禁止の指令が出されている。
- ^ 『辻の華』によれば、運営や自治の類は全て女性によって行われていたが、どうしても「男手」が必要な部分もあり、主に事務上の手続きなどを行う為に雇われている男性もいた。
- ^ ムイメたちは全く無給の上に祭祀や行事の経費も持ち出しとされることから、年配の裕福な抱親の中から選ばれるような配慮が成されていた。しかしながらこれまでの蓄えを全て使い果たした上に借金を重ね、行方をくらました話も伝えられている。昭和初期に、一年間の任期中に2000円以上使うはめになった、との話も伝えられている。なお、選任されれば本人には拒否権は無い。
- ^ また、自らが産んだ娘を遊女として使役することも見られた。尚、抱母は当て字であり、「暗魔」などと書かれることも有った。更に、琉球では一般的に「アンマー」は母親という意味のある言葉であり、辻界隈でも年配者は抱親でなくともアンマーと呼ばれていた。
- ^ もちろん男性客が金銭を支払い、身請けを行うことも可能ではあったが、辻においてはむしろ後で面倒なことになりかねない、と、あまり好まれず、ほとんどはジュリ自身が自力で支払っていた。なお、容姿その他の問題で、辻に売られたにもかかわらず客の取れない女性は、禄に前借金を返済することができないため、部屋も与えられず、一生辻で下働きを続けるような場合もあった。
- ^ 女児は辻で遊女と生活を共にし、将来的に遊女になる例が多く見られたが、男児はジュリの親元(実家)に預けられることがならわしであった。
- ^ 交番所に届け出れば外出自由であったとの資料もある。
- ^ 琉球新報明治34年9月17日号によれば、午前4時頃、辻の中道なる染屋商から出火、獅子屋小路のほとんどを焼失。損害額は少なくとも25000円以上と見込まれる。
出典
編集- ^ 日本郵便 郵便番号検索
- ^ 都市計画情報提供システム(那覇市)
- ^ 『月刊おとなのトレンディー』(トレンディー出版)の掲載店舗一覧表による。Vol.184(2006年4月号)では「泡店」37軒、vol.238(2010年10月号)では「泡店」43軒。『沖縄県警察史 3』によれば、1988年の「個室付き浴場」は30件である。なお、『沖縄の女たち』(1996年)によれば、沖縄県のトルコ風呂の数は全国で第10位である。
- ^ 『沖縄ナンクル読本』 p.242 -、
- ^ 『情話』p.18、『ひたすら歩いた 沖縄みちばた紀行』 p.55 -
- ^ 『那覇市史 通史編 1』 p.3 - p.14
- ^ 『那覇市史 通史編 1』 p.15 - p.26
- ^ a b 『那覇市史 通史編 1』 p.358
- ^ 『沖縄大百科事典』中 p.818
- ^ 『沖縄風土記全集 那覇の今昔』 p.350 -、『情話』p.8
- ^ 『那覇市史 通史編第2巻 近代史』 1974.2 p.475 - 「3遊郭の合併」
- ^ 『沖縄の遊郭』 p.99
- ^ 『沖縄 女たちの戦後』 p.47、『沖縄を知る辞典』「歓楽街」、『なは・女のあしあと』 p.268 -、p.287 -
- ^ 『なは・女のあしあと』 p.268 -
- ^ 『沖縄風土記全集 那覇の今昔』
- ^ 『おきなわ女性のあゆみ』 p.433、『沖縄の女たち』 p.46、『売春と前借金』 p.90、「売春防止対策関係資料 昭和51年度」
- ^ 『ひたすら歩いた 沖縄みちばた紀行』p.55 -
- ^ 『情話』p.78
- ^ 『売春と前借金』、『沖縄と遊郭』
- ^ 『情話』 p.57
- ^ 『情話』 p.27 「遊治郎取締令」、p.29 「傾城証文」、p.31「遊女の外出禁止令」p.47「遊郭制度の比較」
- ^ 『沖縄文化史辞典』 p.211「生殖器崇拝」
参考文献
編集- 『沖縄を知る辞典』 日外アソシエーツ 2000年5月
- 『復帰後全記録 現代沖縄事典』 琉球新報社 1992年5月
- 『琉球国由来記 巻8 那覇由来記』 29.辻中島ノ事 『那覇市史 資料編 第1巻第1分冊 考古・中世資料』 1968年6月
- 上原栄子 『辻の華 くるわのおんなたち』 時事通信社 1976年、新篇2010年。実際に辻の遊女であった人物の半生記。
- 太田良博 佐久田繁 編著 『沖縄の遊郭 新聞資料集成』 月刊沖縄 1984年12月
- 沖縄県社会福祉協議会 売春対策協議会 「売春防止対策関係資料 昭和51年度」
- 沖縄県社会福祉協議会 売春対策沖縄県連絡協議会 「売春対策関係資料 昭和48年 2月」
- 沖縄女性史を考える会 『沖縄・女たちの昭和』 那覇市首里公民館 1989年10月 p.60 -
- 沖縄大百科事典刊行事務局 『沖縄大百科事典』 上巻、中巻、下巻 沖縄タイムス社 1983年4月 (主に参考としたものは中巻の「辻」の項。全体的な理解への参考とした。)
- 沖縄風土記刊行会 編 『沖縄風土記全集 那覇の今昔』 沖縄図書教材株式会社 1969年12月
- 加田芳英 『図説・沖縄の鉄道 改訂版』 ボーダーインク 2003年7月
- カベルナリア吉田 『ひたすら歩いた 沖縄みちばた紀行』彩流社 2009年8月 p.55「辻」
- 来和雀 『歓楽郷辻の今昔 琉球辻情話』 沖縄郷土文化研究会 1934年10月(初版)、1973年3月(3版、この記事の現版において出典として用いている版。ページ数はこの版に準じる)。
- 下川裕治、篠原章共編著 『沖縄ナンクル読本』講談社文庫 2002年7月 ISBN 978-4062734691 (p.243 -)
- 高里鈴代 『沖縄の女たち 女性の人権と基地・軍隊』 明石書店 1996年8月
- 玉城隆雄 他編 『戦後50年 おきなわ女性のあゆみ』 沖縄県総務部 1996年3月
- 那覇市 『那覇市史 資料編 第1巻第1分冊 考古・中世資料』「那覇市の考古資料」 1968年6月
- 那覇市 『那覇市史 通史編 第1巻(前近代史)』 1980年8月 第1編第1章第1節「古那覇の自然」(p.3)、第3編第2章第4節「辻・仲島・渡地」(p.358)
- 那覇市 『那覇市史 資料編 第2巻中の7』 1979年1月 序説9「辻の民俗」(p.18)、第1章第7節「辻遊郭」(p.128)
- 那覇市企画部市史編集室 『激動の記録 那覇100年のあゆみ』 那覇市企画部市史編集室 1980年3月 (p.15「明治初頭の那覇及び久米村図」、p.65「辻の情趣」p.78「ソテツ地獄」p.121「十・十空襲 那覇市被害状況図」、p.162「甦える那覇市」)
- 那覇市総務部女性室 編 『なは・女のあしあと 那覇女性史 (戦後編)』 琉球新報 2001年3月
- 日本弁護士連合会 編 『売春と前借金』 高千穂書房 1974年8月 (p.41 -、p.87 -)
- 真栄田義見 他編 『沖縄文化史辞典』東京堂出版 1972年 p.211「生殖器崇拝」
- 宮里悦 編 『沖縄・女たちの戦後 焦土からの出発』ひるぎ社 1986年11月
- 琉球政府文教局 『琉球史料 第4集 社会編 1』(1945年 - 1955年) 那覇出版社 1988年9月 p.293「特別布告第16号 婦女子の性的奴隷制の禁止」
- 渡辺欣雄 他編 『沖縄民俗辞典』 吉川弘文館 2008年7月 ISBN 978-4-642-01448-9 (全般的な風俗の他、p.264「ジュリ」、p.273「人身売買」、p.417「売春」、p.534「遊郭」を主に参考とした)