赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年明治25年)6月18日[1][2] - 1977年昭和52年)1月9日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺田[1][2]

赤柴 八重蔵
生誕 1892年6月18日
日本の旗 日本 新潟県
死没 (1977-01-09) 1977年1月9日(84歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912 - 1945
最終階級 陸軍中将
除隊後 東京復員監部東京支部長
テンプレートを表示

経歴

編集

本籍新潟県[1][2][3]。寺田弥蔵の二男として生まれ、赤柴幾太郎陸軍大佐の養子となる[1]。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業[1][2][3]。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第40連隊付となる[1]。朝鮮臨時派遣歩兵第2大隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業[1][2][3]

歩兵第80連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀陸軍省人事局付、人事局課員、欧州出張などを経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し陸士付となる[1][3]1937年(昭和12年)7月、歩兵第10連隊長となり日中戦争に従軍し、徐州会戦に参加した[1][2][3]。1938年(昭和13年)3月から4月7日までの間、台児荘の戦いに参加した、上級司令部の状況判断の過ちから台児荘において数倍の敵軍に包囲され、全滅寸前の苦戦を強いられる[注釈 1]。陸士生徒隊長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級[1][3]。陸士幹事を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となり第25師団長に親補され満州に駐屯した[1][2][3]

1943年(昭和18年)10月、近衛第1師団長に発令[1][2][3]。さらに第53軍司令官となり伊勢原本土決戦に備えたが終戦を迎えた[1][2][3]1945年(昭和20年)12月に予備役編入となり、翌年3月まで東京復員監部東京支部長に在任[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

栄典

編集
位階
勲章

伝記

編集
  • 赤柴元五郎『赤柴八重蔵追悼録』1977年。

親族

編集
  • 義父 石原廬(陸軍少将)[1]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ このとき陸軍伍長として従軍していた作家の棟田博が重傷を負う。後に棟田は、台児荘での体験を「分隊長の手記」として発表し、ベストセラーになった。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典 第2版』5-6頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』18頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』314頁。
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。
  5. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  6. ^ 『官報』第5427号「叙任及辞令」1945年2月19日。

参考文献

編集
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。