赤松則英
日本の安土桃山時代の武将。豊臣家の家臣。阿波住吉城主赤松則房次男で、赤松氏14代当主
赤松 則英(あかまつ のりひで)は、安土桃山時代の武将。赤松氏最後の(14代)当主とされる[要出典]。阿波国住吉[注 1]1万石領主[1]。ただし、則英の存在は史料的に確認されていない[要出典]。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長5年10月1日(1600年11月6日) |
官位 | 上総介 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼 |
氏族 | 赤松氏 |
父母 | 父∶赤松則房 |
兄弟 | 広範、則英 |
略歴
編集赤松氏13代[要出典]当主・赤松則房の次男[要出典]として誕生(則房と同一人物との説、養子との説あり)[1]。慶長3年(1598年)、父・則房の死により家督を相続する[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、大坂天王寺より平野口の警備を受け持ち、決戦前に[要出典]石田三成の居城である佐和山城本丸に籠城した[2][1]。東軍に寝返った小早川秀秋らの攻撃を受けて佐和山城は落城したが[2][1]、則英は落城直前に逃亡したとされる[要出典]。
注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f 「赤松則英」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、講談社(『コトバンク』、VOYAGE MARKETING、2015年9月)。2021年12月3日閲覧。
- ^ a b 『佐和山城跡 — その歴史と山に残されたもの』、滋賀県教育委員会・彦根市教育委員会編、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課〈埋蔵文化財活用ブックレット〉5、2010年9月28日、23頁。国立国会図書館書誌ID:000011056926。