赤川元秀
赤川 元秀(あかがわ もとひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正19年12月30日(1592年2月13日) |
別名 | 又五郎、十郎左衛門(通称) |
官位 | 筑前守(受領名) |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 桓武平氏良文流小早川氏庶流赤川氏 |
父母 | 父:赤川就秀、母:井上元兼の娘 |
兄弟 |
元秀、元通、安近、土佐入道、元之、 女(児玉中務室)、女(小寺鎮賢室) |
妻 |
正室:井上元盛の娘 継室:野上房忠の娘 |
子 |
元房、長沼元正、女(児玉元兼室)、 女(兼重元続室)、女(天野元勝室)、 女(渡辺元室)、女(国司元蔵正室) |
生涯
編集毛利氏家臣である赤川就秀の長男として誕生。初めは井上元盛の娘を娶るが、後に離縁し、野上房忠の娘を継室に迎えた。
天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いを初めとして、天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いや天文24年(1555年)の安芸国矢野の戦いなどで武功を立て、毛利元就から感状を与えられた。
永禄11年(1568年)の大友氏攻めでは陣奉行を命じられ、元亀3年(1572年)の毛利氏掟では年寄衆の一人として掟を確認している。天正8年(1580年)頃には備後国福山城を守備し、400貫の給地宛行を毛利輝元から約束された。