赤坂今井墳墓
赤坂今井墳墓(あかさかいまいふんぼ)は、京都府京丹後市峰山町赤坂にある弥生時代後期末の墳丘墓である。国の史跡に指定されている。
赤坂今井墳墓 | |
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所在地 | 京都府京丹後市峰山町赤坂 |
位置 | 北緯35度38分36.0秒 東経135度03分02.0秒 / 北緯35.643333度 東経135.050556度座標: 北緯35度38分36.0秒 東経135度03分02.0秒 / 北緯35.643333度 東経135.050556度 |
築造時期 | 弥生時代後期末 |
史跡 | 国の史跡「赤坂今井墳墓」 |
概要
編集福田川と竹野川の分水嶺付近、中郡盆地から網野町方面に抜ける細い谷を見下ろす丘陵上に立地する[1]。西から伸びる丘陵尾根の先端部に大規模な土地改変を施し築造された截頭方錐形の墳丘墓(台状墓)である[1]。墳丘の規模は、底辺が南北39メートル・東西36メートル・高さ4メートルで[2]、墳頂部に南北27メートル・東西25メートルの平坦面を持つ[3]。墳丘裾の西側は尾根高所との境に地山削出によって幅9メートルのテラス状平坦面を設け、盛土によって北・東・南側に幅6メートルのテラス状平坦面が造りだされている[2]。
埋葬施設は、墳頂部の平坦面に6基、墳丘裾の平坦面に19基(北側11基・西側3基・南側1基・東側4基)が確認されている[4]。遺構保存のため、完掘された埋葬施設は11基に留まる[5]。棺の形態は、船底状木棺3基(うち墳頂部2基)、組合式箱型木棺6基(うち墳頂部1基)、土壙墓3基、土器棺1基である[5]。中心埋葬は、南北14メートル・東西10.5メートルの方形墓壙を持つ墳頂部平坦面の第1埋葬とみられ、棺は長軸7メートル短軸2メートルの船底状木棺と推定されているが、棺内は調査されていない[6]。頭飾りが出土したことで著名な第4埋葬や第2・3埋葬は、第1埋葬と切り合い関係にあり、第1埋葬が初葬であったと考えられる[4]。第1埋葬の西辺には、葬送儀礼に伴うと考えられている柱穴が南北に4基並んでいる[注釈 1]。
第1埋葬の墓壙上で出土した土器から、弥生時代後期末[注釈 2][注釈 3]に築造されたと考えられる[7]。また、チョコレート色の胎土に角閃石を含む壺(河内・生駒西麓産、もしくは讃岐・香東川下流域産)、被籠状突帯壺(東海~関東地方)など、多くの他地域からの搬入土器が出土した[8]。
第1埋葬を切り込んで構築された第4埋葬からは、頭飾りと垂飾具(耳飾り)が被葬者に装着された状態で出土した[9]。頭飾りは、碧玉[9](緑色溶結凝灰岩[10])製管玉・緑色の鉛バリウムガラス製勾玉・青色の鉛バリウムガラス製管玉で構成されていた[10]。青色の鉛バリウムガラス管玉の着色要因として、古代中国の顔料「漢青」(en:Han purple and Han blue、ケイ酸銅バリウム)が使用されていた[10]。第4埋葬の棺底部中央には、三重県・丹生鉱山産の辰砂から調製された朱[11]が敷きつめられていた[9]。
発掘と保存の歴史
編集京都府道17号網野峰山線の拡幅工事が計画され[12]、開発区域内に中世山城の今井城が含まれていたことから、平成10年度(第1次調査)・11年度(第2次調査)の2箇年で事前調査が実施された[13]。その結果、山城の主郭と想定されていた方形土壇が、弥生時代後期末の巨大な墳丘墓であることが判明した。また、長軸14メートルの巨大な中心埋葬を始め、墳頂部および周辺平坦面で計13基の埋葬施設が確認された[13]。
新たに発見された遺跡は、地名(字赤坂小字ケビ・今井)から赤坂今井墳丘墓と命名された[14]。京都府は、道路工事の工法を変更することで、遺跡を現地保存することを決定した。峰山町は、史跡指定と史跡公園の整備に向けて、平成11年度中に遺跡地の大部分の公有地化を終えた[14]。
峰山町は京都府・文化庁から遺跡の重要性と範囲を明確にするよう指導を受けたことで、平成12年度から平成15年度までの4箇年で範囲確認調査(第3次~第6次調査)を実施した[13]。
2007年(平成19年)7月26日には国の史跡に指定された[15]。2010年(平成22年)3月23日には出土品が京都府指定文化財に指定された[16]。
文化財
編集国の史跡
編集- 赤坂今井墳墓 - 2007年(平成19年)7月26日指定[15]。
京都府指定文化財
編集注釈
編集- ^ 本来は5基であったと考えられている。第1埋葬の埋葬儀礼後に、第4埋葬が構築されたため、掘削範囲と重なっていた1基が消滅している。
- ^ 第1埋葬墓壙上、および第4埋葬から出土した在地土器は、丹後地域の弥生時代土器編年における弥生時代後期末の西谷2式新段階に該当する。西谷2式新段階は他地域での出土例から、畿内では纒向2類または庄内0式・1式との併行関係が推定される。また、第12周辺埋葬から出土した土器は後続する西谷3式(白米山北式)であり、畿内の庄内1式のうち小型器台が出現する時期に相当する。赤坂今井墳墓は西谷2式新段階に築造され、追葬は西谷3式まで継続されたと考えられる。庄内式に併行する時期は弥生時代終末期とも称され、史跡指定理由において終末期とされているのはこのためであろう。
- ^ 暦年代は参考資料によって2世紀後半から3世紀前半までの間で異なった記述が見られる。庄内0式であれば2世紀後半、庄内1式であれば3世紀初頭になる。墓壙上に円礫を敷設するなど2世紀後半の楯築弥生墳丘墓からの影響が考えられるため、後続する2世紀末から3世紀初頭が適当であろう。近年、放射性炭素年代測定法を用いた研究が進展しており、庄内1式は2世紀第3四半期になる。将来的に暦年代と土器編年の対応が改められる可能性があるため、本記事では暦年代の記述を行わない。
脚注
編集- ^ a b 峰山町教育委員会 2004, pp. 132–142.
- ^ a b 峰山町教育委員会 2004, pp. 107–108.
- ^ 大阪府立近つ飛鳥博物館 2009, pp. 26–27.
- ^ a b 峰山町教育委員会 2004, p. 33.
- ^ a b 峰山町教育委員会 2004, p. 62.
- ^ 峰山町教育委員会 2004, p. 15.
- ^ 峰山町教育委員会 2004, pp. 116–122.
- ^ 峰山町教育委員会 2004, pp. 110–115.
- ^ a b c 峰山町教育委員会 2004, pp. 47–52.
- ^ a b c 峰山町教育委員会 2004, pp. 98–102.
- ^ 峰山町教育委員会 2004, pp. 103–106.
- ^ 峰山町教育委員会 & 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター 2001, p. 1.
- ^ a b c 峰山町教育委員会 2004, pp. 1–2.
- ^ a b 峰山町教育委員会 2004, pp. 13–14.
- ^ a b 赤坂今井墳墓 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b 「赤坂今井墳墓出土品」『京都の文化財 第28集』 京都府教育委員会、2011年、pp. 24-25。 - pp. 21-25(京都府教育委員会)参照。
- ^ 京都府指定・登録等文化財(京都府教育庁指導部文化財保護課)。
参考文献
編集- 近藤義郎『楯築弥生墳丘墓』1998年。
- 峰山町教育委員会、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター『赤坂今井墳丘墓 第3次発掘調査概要報告』2001年。
- 峰山町教育委員会『赤坂今井墳丘墓発掘調査報告』2004年。
- 大阪府文化財センター『古式土師器の年代学』2006年。
- 香芝市教育委員会、香芝市二上山博物館『邪馬台国時代の丹波・丹後・但馬と大和』2007年。
- 大阪府立近つ飛鳥博物館『卑弥呼死す 大いに冢をつくる』2009年。
- 会下和宏『墓制の展開にみる弥生社会』2015年。
- 小寺智津子『古代東アジアとガラスの考古学』2016年。
- 高槻市立今城塚古代歴史館『古代の日本海文化 太邇波の古墳時代』2018年。