賈 諒(か りょう、洪武15年(1382年)- 正統4年1月14日1439年1月28日))は、明代官僚は子信。本貫高唐州武城県

生涯

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賈旺と魏氏のあいだの子として生まれた。永楽9年(1411年)、郷挙により太学に入った。皇太孫朱瞻基の近侍に選ばれ、書を講説した。永楽12年(1414年)、刑科給事中に抜擢された。宣徳4年(1429年)、賈諒は刑部侍郎の金庠が賄賂を受け取っていたとして弾劾し、これを罷免させた。賈諒は郎中の胡玨・蕭翔ら11人や御史の方鼎ら3人に対しても、職務に不適任として弾劾した。宣徳帝は真偽を図りかねて、賈諒と張居傑に命じてひそかにかれらを監察させたところ、賈諒の弾劾は的を射ていたため、かれら全員の官を降格させた。宣徳5年(1430年)、陽武侯薛禄の仲間を不敬として弾劾した。ほどなく右副都御史に任じられた。錦衣指揮王裕・参議黄翰・中官張義らとともに四川江西湖広を巡視し、豪族を調査した。正統2年(1437年)、江北・河南洪水が起こると、賈諒は工部侍郎の鄭辰とともに命を受けて赴き、振恤にあたった。芒山・碭山の盗賊を追捕して、多くを捕らえた。正統4年正月14日(1439年1月28日)、徳州で死去した。享年は58。

参考文献

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  • 明史』巻158 列伝第46
  • 副都御史賈君墓碑(徐紘『明名臣琬琰録』巻22所収)