貞純王后

朝鮮第21代王・英祖の妃。純祖時の摂政。

貞純王后 金氏(ていじゅんおうこう きんし、チョンスンワンフ キムシ、乾隆10年11月10日1745年12月2日) - 嘉慶10年1月12日1805年2月11日))は、李氏朝鮮の第21代国王英祖の2番目の王妃(継室)。慶州金氏諡号は睿順聖哲荘僖恵徽翼烈明宣綏敬光献隆仁正顕昭粛靖憲貞純王后。

貞純王后
朝鮮王妃
別称号 睿順聖哲荘僖恵徽翼烈明宣綏敬光献隆仁正顕昭粛靖憲貞純王后(諡号)

出生 乾隆10年11月10日1745年12月2日
死去 嘉慶10年1月12日1805年2月11日
配偶者 英祖
子女 なし
氏族 慶州金氏
父親 鰲興府院君金漢耈朝鮮語版
母親 原豊府夫人
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貞純王后
各種表記
ハングル 정순왕후
漢字 貞純王后
発音: チョンスンワンフ
日本語読み: ていじゅんおうこう
ローマ字 Queen Jeongsun
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生涯

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驪州にて鰲興府院君金漢耈朝鮮語版と原豊府夫人の間に生まれた。

1757年貞聖王后が没すると、英祖は後宮から新しい王妃を選ぶことをせず、1759年揀択令を発し、仁元王后と同じ慶州金氏から、金漢の娘である貞純王后を王妃として迎えた。当時英祖は66歳、貞純王后は15歳であり、李朝歴代王の中で、最も年齢差の大きい婚姻であった。貞純王后は英祖の子である王世子荘献世子よりも歳が若かったが、一族と共に荘献世子の死に関与したことから荘献世子の遺児正祖との仲は悪かった。

揀択の際に英祖は王妃候補者にこの世で一番深いものは何かと問うと、王妃候補者の一人だった金氏は人心が一番深いと答え、英祖を感心させた逸話がある。英祖からの寵愛は深かったが、子女を儲けることはなかった。

1776年に夫の英祖が崩御すると王大妃となったが、兄の金亀柱朝鮮語版が同年に病況悪化に陥った恵慶宮洪氏(正祖の母)の見舞いに来なかったを理由に、正祖により黒山島流刑された。その後、金亀柱は1786年に流刑先の羅州で病死したため、金氏と正祖の仲をさらに悪化させた。

1800年純祖の即位直後より大王大妃として垂簾聴政を行い、取り止めるまでの3年間権力を振るった。この間に貞純王后は天主教信者を含む南人系の実学者達を弾圧し(辛酉邪獄朝鮮語版)、丁若鏞李家煥等を粛清した。1803年12月に垂簾聴政を取りやめ、1805年昌徳宮景福殿にて死没した。享年61。英祖の陵である元陵に埋葬された。

彼女の死後は安東金氏による勢道政治が始まる事となった。


家族

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  • 父:鰲興府院君金漢耈朝鮮語版(キム・ハング、1723年 - 1769年)
  • 母:原豊府夫人元氏(1722年 - 1769年)
  • 兄:金亀柱朝鮮語版(キム・ギジュ、1740年 - 1786年)
  • 弟:金麟柱(キム・インジュ、生没年不詳)
  • 夫:英祖

登場作品

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テレビドラマ

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映画

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先代
貞聖王后
朝鮮王妃
在位:1759年 - 1776年
次代
孝懿王后
先代
宣懿王后
朝鮮大妃
在位:1776年 - 1800年
次代
孝懿王后
先代
仁元王后
朝鮮大王大妃
在位:1800年 - 1805年
次代
純元王后