豊岡治資
豊岡 治資(とよおか はるすけ[1])は、江戸時代後期から幕末にかけて活動した公卿。名家豊岡家の第8代当主。
時代 | 江戸時代後期 - 末期 |
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生誕 | 寛政元年11月11日(1789年12月27日) |
死没 | 嘉永7年4月11日(1854年5月7日) |
官位 | 正三位大蔵卿 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 豊岡家 |
父母 | 父:豊岡和資 |
妻 | 舟橋貞子 |
子 |
随資、町尻量衡 錦小路頼徳 |
生涯
編集出生と前半生
編集寛政元年11月11日(1789年12月27日)、豊岡和資の子として誕生[1][2]。母は高丘敬季の娘[2]。
寛政5年1月5日(1793年2月15日)、叙爵[2]。享和3年12月17日(1804年1月29日)、元服し昇殿を許され、拝賀した[2]。
文化4年9月22日(1807年10月23日)、恵仁親王への親王宣下があり[3]、親王の職事となった[2]。文化6年3月24日(1809年5月8日)、立太子と坊官除目があり[4]、春宮少進を兼ねて拝賀した[2]。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、光格天皇が譲位し恵仁親王(仁孝天皇)が践祚すると[5]、光格上皇の院別当となり、同日拝賀した[2]。
公卿、外弁歴任
編集文政 2年1月4日(1819年1月29日)、従三位に叙され、公卿に列せられた[2]。同年4月13日(5月6日)、父の和資が薨去して服喪し、5月4日(6月25日)に除服出仕した[2]。
文政5年1月1日(1822年1月23日)、元日節会の外弁を務めた[6]。
文政6年12月19日(1824年1月19日)、正三位に昇叙した[7]。これが極位となる。
文政7年1月1日(1824年1月31日)、元日節会の外弁を務めた[8]。文政8年1月2日 (旧暦)(1825年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた[9]。文政10年1月2日(1827年1月28日)、再び白馬節会の外弁を務めた[10]。文政11年1月1日(1828年2月16日)、元日節会の外弁を務めた[11]。文政12年11月14日(1829年12月9日)、豊明節会の外弁を務めた[12]。天保4年1月2日(1833年2月21日)、白馬節会の外弁を務めた[13]。天保6年11月19日(1836年1月7日)、再び豊明節会の外弁を務めた[14]。天保8年1月1日(1837年2月5日)、元日節会の外弁を務めた[15]。天保9年1月1日(1838年1月26日)、再び元日節会の外弁を務めた[16]。天保10年1月12日(1839年2月25日)、踏歌節会の外弁を務めた[17]。天保11年1月2日(1840年2月4日)、白馬節会の外弁を務めた[18]。
光格上皇の崩御
編集天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇が崩御すると、同年12月20日(1841年1月12日)、御服を賜った[18]。翌年1月20日(1841年2月11日)、除服を宣下された[19]。
天保13年1月14日(1842年2月23日)、踏歌節会の外弁を務めた[20]。天保14年1月1日(1843年1月30日)、元日節会の外弁を、11月24日(1844年1月13日)、豊明節会の外弁を務めた[21]。天保15年1月2日(1844年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた[22]。弘化2年1月1日(1845年2月7日)、元日節会の外弁を務めた[23]。弘化3年1月12日(1846年2月7日)、踏歌節会の外弁を務めた[24]。
孝明天皇の治世
編集弘化5年1月12日(1848年2月16日)、踏歌節会の外弁を務め、一献の後退出した[25]。嘉永2年1月2日(1849年1月25日)、白馬節会の外弁を務めた[26]。嘉永5年1月1日(1852年1月21日)、元日節会の外弁を務めた[27]。嘉永6年1月2日(1853年2月9日)、白馬節会の外弁を務め、同年11月15日(1853年12月15日)、豊明節会の外弁を務め、二献の後に退出した[28]。
官歴
編集文政二年以前は『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政二年条を参照。
- 寛政 5年 1月 5日(1793年 2月15日)、従五位下
- 享和 3年12月17日(1804年 1月29日)、任左馬権頭、叙従五位上
- 文化 3年 1月18日(1806年 3月 7日)、叙正五位下
- 文化1809年 5月 8日)、兼春宮少進 6年 3月24日(
- 文化1810年 1月27日)、叙従四位下 6年12月22日(
- 文化1812年 3月14日)、任右兵衛佐 9年 2月 2日(
- 文化1813年 1月21日)、叙従四位上 9年12月19日(
- 文化12年12月19日(1816年 1月17日)、叙正四位下
- 文政 2年 1月 4日(1819年 1月29日)、叙従三位
- 文政[注釈 1] 2年 4月13日(1819年 5月 6日)、軽服
- 文政 2年 5月 4日(1819年 6月25日)、除服出仕
- 文政1822年 1月11日)、任大蔵卿[30][注釈 2] 4年12月19日(
- 文政1824年 1月19日)、叙正三位[7] 6年12月19日(
- 天保 2年 6月25日(1831年 8月 2日)、服解[注釈 3]
- 天保[31] 2年 8月16日(1831年 9月21日)、除服出仕復任
- 嘉永 7年 4月11日(1854年 5月 7日)、辞大蔵卿、同日薨[29]
系譜
編集出典がないものは『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 203を参照。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 203.
- ^ a b c d e f g h i 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 光格天皇文化四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 光格天皇文化六年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 光格天皇文化十四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政五年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政六年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政七年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政八年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政十年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政十一年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政十二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保六年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保八年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保九年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十一年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十三年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保十四年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇弘化元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇弘化二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇弘化三年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永元年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永二年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永五年条.
- ^ 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇嘉永六年条.
- ^ a b c 『公卿補任』第五篇, 孝明天皇安政元年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政四年条.
- ^ a b 『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇天保二年条.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 566.
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 308.
参考文献
編集- 『公卿補任』第五篇、黒板勝美・国史大系編修会編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。
- 『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、吉川弘文館、1996年。