谷衛量
日本の江戸時代後期の大名。丹波山家藩7代藩主谷衛秀次男で、山家藩8代藩主。従五位下大学頭・出羽守・播磨守
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和2年(1765年) |
死没 | 享和元年9月21日(1801年10月28日) |
改名 | 鶴太郎(幼名)、衛量 |
官位 | 従五位下・大学頭、出羽守、播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 丹波山家藩主 |
氏族 | 谷氏 |
父母 | 谷衛秀、牧野氏 |
兄弟 | 衛量、衛睦、蒔田広憲正室、谷勝衛室ら |
妻 | 佐竹義方長女八重 |
子 | 衛萬、衛弥、四条隆師室 |
生涯
編集第7代藩主・谷衛秀の次男。
安永6年(1777年)11月24日、衛秀の嫡子となる。安永9年(1780年)10月8日、父の死去により家督を相続した。天明5年(1785年)11月15日、10代将軍徳川家治に御目見した。同年12月18日、従五位下・大学頭に叙任する。後に出羽守、次いで播磨守に改めた。寛政7年(1795年)2月27日、佐竹義方の長女の八重と結婚したが、寛政12年(1800年)閏4月17日、八重と離婚した。
享和元年(1801年)9月21日、死去した。享年37。跡を長男の衛萬が継いだ。