諏訪頼満 (安芸守)
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諏訪 頼満(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明5年(1473年)[注釈 1] |
死没 | 天文8年(1540年)[注釈 2] |
改名 | 宮法師丸(幼名)、頼満、碧雲斎(法号) |
官位 | 安芸守 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 諏訪政満 |
兄弟 | 宮若丸、頼満、盛満(小太郎) |
子 | 頼隆、満隣、満隆、今井信隣室、高遠頼継室 |
生涯
編集諏訪政満の次男[1]。
文明15年(1483年)1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗(高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した[1]。成長して永正15年(1518年)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて[1]甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。
享禄3年(1530年)4月18日、嫡男の頼隆が頼満に先立って31歳で急死し、天文3年には嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)で敗退しており、天文4年(1535年)には信虎と和睦する[1]。信虎の娘を頼重に娶わせ、ともに小笠原長棟を攻めた。
天文8年(1539年)11月、背中に生じた腫瘍の悪化によって67歳で病死した[1]。諏訪氏が武田晴信によって滅ぼされる2年半ほど前のことであった。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。