諏訪忠粛
諏訪 忠粛(すわ ただかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃国高島藩7代藩主。官位は従五位下・伊勢守、因幡守[1]。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 明和5年4月4日(1768年5月19日) |
死没 | 文政5年6月28日(1822年8月14日) |
改名 | 軍次郎(幼名)→忠粛 |
別名 | 月閑亭(号) |
戒名 | 放光院殿普照道徳大居士 |
墓所 | 長野県諏訪市湯の脇の温泉寺 |
官位 | 従五位下・伊勢守、因幡守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 信濃諏訪藩主 |
氏族 | 諏訪氏 |
父母 | 父:諏訪忠厚、母:木村氏娘・おとめ |
兄弟 | 忠粛、頼庸 |
妻 |
正室:松平乗完の娘 側室:間野氏 |
子 | 忠恕、森川俊一、前田長徳、松平忠恵継室、龍子(神人部頼安室)、平野貞任室 |
生涯
編集明和5年(1768年)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生した。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかしこの騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年12月11日(1782年)に跡を継ぐこととなった。
天明5年(1785年)からは坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。享和3年(1803年)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。文化13年(1816年)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)6月28日に死去した。享年55。
系譜
編集父母
- 諏訪忠厚(父)
- おとめ、前島氏 ー 側室(母)
正室
- 松平乗完の娘
側室
- 間野氏
- 前島氏
子女