調神社
調神社(つきじんじゃ[1])は、埼玉県さいたま市浦和区岸町三丁目にある神社。式内社で、旧社格は県社。
調神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25 |
位置 | 北緯35度51分12.4秒 東経139度39分21秒 / 北緯35.853444度 東経139.65583度座標: 北緯35度51分12.4秒 東経139度39分21秒 / 北緯35.853444度 東経139.65583度 |
主祭神 |
天照大御神 豊宇気姫命 素盞嗚尊 |
社格等 |
式内社(小) 旧県社 |
創建 |
(伝)第9代開化天皇年間 (一説)宝亀2年(771年)頃 |
本殿の様式 | 権現造 |
別名 | 調宮 |
例祭 | 7月20日 |
地図 |
別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる。
祭神
編集祭神は次の3柱[2]。
祭神に関する伝説として、調神社に古くから伝わる七不思議(後述)のうちに「松が無いこと」がある[3]。その伝説では、当地に姉神・弟神がいたが弟神は大宮に行ってしまい、姉神が帰りを待っても弟神は帰って来なかったため、姉神はもう待つことを嫌ったという[3]。この伝説に見える姉神と弟神は、天照大神(当社祭神)と素盞嗚尊(大宮の氷川神社祭神)にあたるといわれる[3]。
他に文献によれば、祭神を瀬織津比咩とする説[注釈 1]、調玉命とする説[4]、月読命とする説[注釈 2]、日の神・倉稲荷玉命の2柱とする説[注釈 3]、天照大神・宇賀御玉神の2柱とする説[7]などがあった[3]。
歴史
編集創建
編集社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたという。また第10代崇神天皇の時には伊勢神宮斎主の倭姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとする。さらに宝亀2年(771年)6月20日には勅使として藤原朝臣常恣が奉幣を行ったので、これが例大祭(現在は新暦7月20日)の起源になったと伝える[3][8][2]。
上記伝承の真偽は定かでないが、『式内社調査報告』等に於いても社名に「調」が見えることから、朝廷への調物(貢ぎ物・御調物)を納める御倉が調神社の前身になったと想定している[3][8][1]。関連伝承として調神社の七不思議のうちに「鳥居が無いこと」があり、その中で倭姫命の命により調物の運搬の妨げとなる鳥居・神門を取り払ったことによると伝えており、この伝承も調神社の前身が御倉であったことを表すものとされる[3]。そして伝承中で奉幣があったと伝える宝亀2年(771年)には武蔵国の所属が東山道から東海道に変更されていることから[9]、この街道変更により調物が通らなくなって役割を終えた御倉が神聖視され、神社として奉斎されるようになったのが実際の創建になると推測されている[3][8]。
以上とは別に、『新撰姓氏録』や国史に見える調連・調首・調吉士・調忌寸一族(調氏)が奉斎したという説もある[3]。この調氏は渡来系氏族であるが、東国に渡来人の集団居住が多いこととの関連が指摘される[3]。当社の所在地名の「岸」は、「吉士」に由来するものとされる[10]。そのほか、境内に多い槻の木(ケヤキ)と「調」を関連付ける説[11]もある[12]。
概史
編集延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、武蔵国足立郡に「調神社」と記載され、式内社に列している[3]。
中世からは、「調」が「月」と同じ読みであることから、月待信仰と結びつくようになった[1]。延元2年/建武4年(1337年)には足利尊氏の命で一色範行による社殿の復興があったが、天正18年(1590年)には小田原征伐に伴う兵火で焼失したという[1]。
江戸時代、慶安2年(1649年)には徳川家光から朱印地7石が寄進された。この朱印状には「月読社」と記されているが[1]、『調宮縁起』ではこの社名は誤りと記されている。しかし、その後の朱印状にもこの社名は継続して使われている。
別当寺は月山寺であり、玉蔵院が兼帯した。月山寺には二十三夜堂が設けられ、月天子の勢至菩薩が本尊としてまつられた[1]。
『江戸名所図会』にも登載され、文人墨客もこの月待・月読の神を知ってか数多く参詣している。中でも寛政3年(1791年)4月11日には、俳人小林一茶が深い森の中に鎮まる「月よみの宮」に額突いたことを『紀行』(一茶全集第5巻)に書いている。また、旅を好んだ僧の津田大浄は、文政2年(1819年)に『遊歴雑記』に「二十三夜の宮と称す(中略)社の造営善尽し、美尽し、内のかざり心々の奉納の品々夥しく、辺鄙の駅路にくらぶれば目を驚かせり」と社頭の繁栄を記している[13]。また、文化4年(1807年)から天保5年(1834年)までの間に江戸の郊外を旅した徳川清水家の御広敷用人の村尾正靖(号は嘉陵)は、記録の中で「勢至菩薩の森だという。本社、拝殿はみな銅葺き屋根で、建物全体を朱に塗って、瑞籬をめぐらしている(中略)社の造りが仏教的でないので、往古には神を崇めていたものを、後になって仏に祀り変えたものであろう」と当時の様子を記している[14]。
天保10年(1839年)には、国学者の平田篤胤が当社を参拝して『調神社考証』を著しているが、その著に於いて、当社は伊勢神宮に納める初穂を入れる倉庫から発展した神社であるとした。
境内
編集社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造で、安政5年(1858年)の造営[1]。それまで使用された旧本殿は、境内社の稲荷神社の社殿として現在も使用されている。
また境内の社叢はケヤキ・ムクノキの古木林を形成しており、「調神社の境内林」としてさいたま市指定天然記念物に指定されている[2]。
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神楽殿
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神池の兎
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手水舎の兎
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狛兎
摂末社
編集- 稲荷神社
- 調宮天神社
- 金毘羅神社
境内にはその他数社が鎮座する。
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調宮天神社(手前)と金毘羅神社(奥)
祭事
編集調神社で年間に行われる主な祭事の一覧[15]。
文化財
編集さいたま市指定文化財
編集七不思議
編集現地情報
編集- 所在地
- 交通アクセス
- 周辺
- 調公園(つきのみやこうえん)
- 埼玉県道213号曲本さいたま線
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e f g 調神社(平凡社) & 2004年.
- ^ a b c d e f g h i 境内説明板。
- ^ a b c d e f g h i j k l 調神社(式内社) & 1976年.
- ^ 『武蔵国式内四十四座神社命附』
- ^ 江戸名所図会 1927, p. 156.
- ^ 新編武蔵風土記稿 足立郡 岸村.
- ^ 平田篤胤 著『調神社考証』・『特選神名牒』
- ^ a b c d 調神社(神々) & 1984年.
- ^ 『続日本紀』宝亀2年(771年)10月己卯(27日)条。
- ^ 岸村(平凡社) & 2004年.
- ^ 国学者の黒川春村は「社地一円に槻の古木にて頗喬木あり。是によりて思ふに調は槻の借字なり」と説を立てている。
- ^ 調神社(神道大辞典) & 1941年.
- ^ 埼玉の神社(埼玉県神社庁) & 1998年.
- ^ 村尾嘉陵 著・阿部孝嗣 訳『江戸近郊道しるべ 現代語訳』講談社学術文庫、2013年。
- ^ 調神社(公益社団法人さいたま観光国際協会「さいたま市の観光・国際交流情報」)。
- ^ a b 「さいたま市内指定・登録文化財一覧」 (PDF) (さいたま市ホームページ)。
参考文献
編集- 境内説明板
- 「岸村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ142足立郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763998/36。
- 斎藤長秋 編「巻之四 天権之部 調神社」『江戸名所図会』 3巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、152-153,156,161頁。NDLJP:1174157/81。
- 事典類
- 「調神社」『神道大辞典 第二巻』平凡社、1941年。
- 『神道大辞典 第二巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)281コマ参照。
- 『日本歴史地名大系 11 埼玉県の地名』平凡社、2004年。ISBN 4582910300。
- 「調神社」、「岸村」。
- 「調神社」『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』埼玉県神社庁、1998年。
- 「調神社」『神道大辞典 第二巻』平凡社、1941年。
- その他文献
- 鈴鹿千代乃 著「調神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第11巻』皇學館大学出版部、1976年。
- 青木義脩 『調神社』 浦和市郷土文化会、1978年。
- 原島礼二 著「調神社」、谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』白水社、1984年。ISBN 4560022216。
- 青木義脩 『調神社』 さきたま出版会、1995年。ISBN 4878912502。
関連項目
編集外部リンク
編集- 調神社 - 公益社団法人さいたま観光国際協会「さいたま市の観光・国際交流情報」