許州
隋朝の州
魏晋南北朝時代
編集東魏の天平初年に置かれた潁州を前身とする。潁州は長社県に治所を置いた。549年(武定7年)、潁州は鄭州と改称され、治所は潁陰県に移された。鄭州は許昌郡・潁川郡・陽翟郡の3郡を管轄した[1]。北周のとき、鄭州は許州と改称された。
隋代
編集583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、許昌郡や潁川郡は廃止されて、その属県は許州の直轄とされた。605年(大業元年)に広州が廃止されると、その管轄県の一部が許州に移管された。607年(大業3年)には郡制施行に伴い、許州は潁川郡と改称され、下部に14県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||||
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区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||||
州 | 許州 | 豫州 | 広州 | 郡 | 潁川郡 | ||||
郡 | 潁川郡 | 許昌郡 | 臨潁郡 | 襄城郡 | 南襄城郡 | 漢広郡 | 定陵郡 | 県 | 潁川県 臨潁県 許昌県 扶溝県 襄城県 繁昌県 葉県 汝墳県 北舞県 郾城県 長葛県 尉氏県 鄢陵県 㶏強県 |
県 | 長社県 臨潁県 |
許昌県 扶溝県 |
邵陵県 | 襄城県 繁昌県 |
葉県 定南県 |
汝墳県 | 北舞県 |
唐代
編集621年(武徳4年)、唐により潁川郡は許州と改められた。742年(天宝元年)、許州は潁川郡と改称された。758年(乾元元年)、潁川郡は許州の称にもどされた。許州は河南道に属し、長社・長葛・許昌・鄢陵・扶溝・臨潁・舞陽・郾城の8県を管轄した[3]。813年(元和8年)、韓皋が許州刺史・忠武軍節度使となり[4]、以後、許州に忠武軍節度が置かれるようになった。
宋代
編集1080年(元豊3年)、北宋により許州は潁昌府に昇格した。潁昌府は京西北路に属し、長社・郾城・陽翟・長葛・臨潁・舞陽・郟の7県を管轄した[5]。
金が潁昌府を奪うと、許州の称にもどされ、昌武軍節度が置かれた。許州は南京路に属し、長社・郾城・長葛・臨潁・襄城の5県を管轄した[6]。
元代
編集明代以降
編集明のとき、許州は開封府に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した[8]。
1724年(雍正2年)、清により許州は直隷州に昇格した。許州直隷州は河南省に属し、臨潁・襄城・郾城・長葛の4県を管轄した[9]。