角間川町
角間川町(かくまがわまち)は、秋田県平鹿郡にかつて置かれていた町。江戸時代から明治時代の中ごろにかけて舟運で繁栄した。民謡(仕事歌)として「角間川船歌」がのこる[1]。
かくまがわまち 角間川町 | |
---|---|
廃止日 | 1955年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 角間川町 → 大曲市 |
現在の自治体 | 大仙市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 東北地方 |
都道府県 | 秋田県 |
郡 | 平鹿郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 7.91 km2. |
総人口 |
4,143人 (住民登録、1952年7月1日) |
隣接自治体 |
川西村、阿気村、田根森村、黒川村 仙北郡金沢西根村、大曲市 |
角間川町役場 | |
所在地 | 秋田県平鹿郡角間川町 |
座標 | 北緯39度24分06秒 東経140度29分01秒 / 北緯39.40172度 東経140.48369度座標: 北緯39度24分06秒 東経140度29分01秒 / 北緯39.40172度 東経140.48369度 |
町村制施行当時の平鹿郡 6.角間川村 | |
特記事項 | 人口密度は523.8人/km2 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集雄物川河口部より66キロメートルさかのぼった横手盆地のほぼ中央部に所在し、盆地西側を流れる雄物川とその支流横手川の合流点に位置する[注釈 1]。全域がほぼ平坦な沖積地である。
歴史
編集中世においては六郷城に本拠を置く六郷氏配下の幡江氏が支配する村であるという記録(湊家文書『中郡村々書上写』)があり、角館城(現・仙北市)の戸沢氏と横手城(現・横手市)の小野寺氏の両勢力の接点でもあった[2]。
佐竹氏の出羽国入部に際し、平鹿郡・雄勝郡の領主であった小野寺氏の旧臣(郷士[注釈 2])が久保田藩の許可を得て開拓し、近世における村名は「角間川新田村」である[2]。久保田藩政下では船場(内陸水運の港湾)として角間川船場(角間川港)を擁し、横手盆地の西側と東側をそれぞれ北にむかって流れる雄物川流域および横手川流域の米穀・物資が集まった。当地の物産は雄物川水運によって久保田城下町・土崎港(ともに秋田市)と結ばれ、西廻り航路によって主として上方に運ばれた。主たる移出品は米、移入品は塩や砂糖など多岐にわたった。また、上川の小船と下川の大船の積み替え地としても賑わい、商業も発達した[2][注釈 3]。江戸時代の中期から後期にかけて「角間川聖人」とよばれた儒学者落合東堤があらわれ、私塾「守拙亭」をひらいた。隣接する藤木村の八圭は歓楽街として発展し、同村の大保(だいぼ)には船頭が多く居住した。
慶応4年(1868年。同年に明治改元)に始まった戊辰戦争における秋田の戦い(秋田戦争)では、激戦地のひとつとなった(角間川の戦い)[3]。
角間川船場の最盛期は奥羽本線開通に先立つ1892年(明治25年)頃であり、舟運により有力地主が輩出した[2]。1894年(明治27年)時点で、村内で地価1万以上の者は6名におよんだ[2]。
しかし、1905年(明治38年)の奥羽本線全線開通後は陸上輸送が主流となり、川港はしだいに衰え、大正年間には往事の面影をほとんど失った。
沿革
編集交通
編集名所・旧跡
編集出身著名人
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典編纂委員会編集『角川日本地名大辞典 秋田県』角川書店、1980年3月。ISBN 4040010507
- 郡義武『秋田・庄内戊辰戦争』新人物往来社、2001年12月。ISBN 4404029497
- 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年10月。ISBN 4490102801
関連項目
編集外部リンク
編集- 「秋田県広報誌全文検索システム」 - 秋田県広報ライブラリー(秋田県広報誌・紙)