角藤定憲
角藤 定憲(すどう さだのり、慶応3年7月(1867年8月) - 明治40年(1907年)1月20日)は、壮士芝居の座長。彼の旗揚げ興行が新派の始まりとされている[1]。
すどう さだのり 角藤 定憲 | |
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生年月日 | 1867年8月 |
没年月日 | 1907年1月20日 |
出生地 | 岡山七軒町(現・岡山市北区南中央町) |
死没地 | 神戸市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 新派 |
活動期間 | 1888年 - 1907年 |
経歴
編集岡山の七軒町(現・岡山市北区南中央町)に生まれた[2]。音平と言った。明治維新で士族の生家が没落し、郵便配達などを勤めたのち、1887年(明治20年)(20歳)、京都で巡査となったが、"過激な自由民権運動は取り締まれ"との命令に逆らって退職し、1888年、中江兆民の自由党機関紙『東雲新聞』に入り、自伝小説『剛胆の書生』を連載した。
保安条例により大阪へ逐われていた兆民は、中村宗十郎の歌舞伎『雪中梅』を観て、自由民権運動の推進に演劇が有効と気付き、『剛胆の書生』の上演を角藤に勧めた。尻込みした上で、角藤は宗十郎の弟子の中村九升に演技の手解きを受け、同年12月、『日本改良演劇一座』と称し、自作の『耐忍之書生貞操佳人』と、幸徳秋水作の『勤王美談上野曙』とを、新町座で上演した。しろうと芝居だったが、もの珍しさが評判を呼び、板垣退助にも激励された。後続の劇団が各地に生まれた。
角藤は俳優に転じ、笠井栄次郎、池田吉之助、神原清三郎、横田金馬ら、十数人の座員と、翌年から京都・中国地方・九州を巡業した。『大日本壮士演劇会』、『大日本帝国元祖壮士演劇』などとも称した。『壮士演劇』の『壮士』とは、自由民権運動の活動家の呼び名である。
1894年(明治27年)、東京で初公演したが、後続の川上音二郎、伊井蓉峰、福井茂兵衛、山口定雄らの数劇団がすでに根を下ろしていて、角藤一座は注目されず、もっぱら地方を回るようになった。
1907年(明治40年)(42歳)、巡業先の神戸大黒座の楽屋で、肺炎のために没した[2]。晩年は不遇だった。
旗揚げの『新町座』の跡地に近い大阪市西区新町二丁目の新町南公園には、1953年(昭和28年)建立の、『角藤定憲改良演劇創始之地』の碑がある。揮毫を頼まれた喜多村緑郎は、第一案の『新派演劇発祥地』は嫌ったという。劇団新派のホームページは角藤を新派の祖としているが[2]、壮士芝居と新派とは別の系譜、とする論も行われる[3]。
おもな上演
編集脚注
編集出典
編集- 大笹吉雄:『日本現代演劇史 明治大正篇』、白水社(1985)ISBN 9784560032312
- 早稲田大学演劇博物館編:『演劇百科大事典 第3巻』、平凡社(1960)