観音劇場
観音劇場(かんのんげきじょう、1917年 開業 - 1930年 閉鎖)は、かつて東京・浅草にあった劇場、映画館である。
種類 | 事業場 |
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市場情報 | 消滅 |
本社所在地 |
日本 〒111-0032 東京市浅草区公園六区一号地 (現在の東京都台東区浅草二丁目11番1号) |
設立 | 1917年 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | オペラ、演芸等の興行 |
代表者 | 曽我廼家五九郎 |
主要株主 | 根岸興行部 |
関係する人物 |
原信子 田谷力三 榎本健一 二村定一 武智豊子 |
特記事項:略歴 1917年 開業 1917年 原信子歌劇団旗揚げ 1930年 新カジノ・フォーリー旗揚げ 1930年 閉館 |
略歴・概要
編集1917年(大正6年)、東京市浅草区公園六区一号地、大勝館の裏手の映画館「キリン館」跡地(現在の東京都台東区浅草2丁目11番1号)で開業した。
同劇場は、曽我廼家五九郎が根岸興行部から経営を任されており、同年1月22日、劇団「歌舞劇協会」が浅草六区の「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演、大ヒットすると、同劇場でも、原信子がが結成した劇団「原信子歌劇団」が、同年3月アイヒベルク作のオペレッタ『アルカンタラの医者』、6月にはリヒャルト・シュトラウス作の『サロメ』を公演した。田谷力三、堀田金星は同劇団に参加した。
1927年(昭和2年)からは日活作品を上映し始めている。1928年(昭和3年)3月14日には、マキノ省三(牧野省三)監督のサイレント映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』をマキノ正博監督の『間者』と併映で、フラッグシップ館として本劇場で公開している[1]。1929年(昭和4年)からは松竹キネマ(現在の松竹)の配給作品を上映している。
1930年(昭和5年)8月、榎本健一(エノケン)が二村定一、武智豊子とともに「第2次カジノ・フォーリー」を脱退、「新カジノ・フォーリー」を同劇場で旗揚げした[2]。同年10月の新カジノ解散とともに閉館した。当館閉館後の1937年に国際通りを挟んだ斜向の位置に浅草国際劇場が開館した。
跡地は飲食店になったが、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月に強制疎開で取り壊される。戦後、1947年(昭和22年)に始まるストリップ劇場開業ラッシュのころに、「百万弗劇場」(1948年6月 - 1952年10月)となった。現在はいくつかのビルに分割されている。
脚注
編集- ^ 忠魂義烈 実録忠臣蔵、日本映画データベース、2009年10月30日閲覧。
- ^ 国立音楽大学音楽学部音楽学学科作成の資料「エノケンさんに 会いにゆこう! (PDF) 」(2004年11月)の記述を参照。