観世寿夫
観世 寿夫(かんぜ ひさお、1925年11月12日 - 1978年12月7日[1])は、観世流の能楽シテ方。53歳で早世した。
かんぜ ひさお 観世 寿夫 | |
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生誕 |
1925年11月12日 東京府東京市下谷区 |
死没 |
1978年12月7日(53歳没) 東京都港区虎ノ門[1] |
国籍 | 日本 |
別名 | 観世清寿 |
職業 |
観世流シテ方能楽師 冥の会代表 |
著名な実績 |
第二次世界大戦後の能楽復興 不条理演劇、ギリシア悲劇の振興 |
配偶者 |
布施浩子(1953年 - 1958年) 福島愛子(1964年 - 1968年) 関弘子(1969年 - 1978年[1]) |
親 | 七代観世銕之丞(雅雪) |
家族 |
弟:観世栄夫 弟:八代観世銕之丞(静夫) |
七代観世銕之丞(雅雪)の長男で、弟に観世栄夫、八代観世銕之丞(静夫)がいる。戦後の能楽復興期に「伝統芸術の会」、「能楽ルネッサンスの会」、「華の会」を結成参加。能楽以外の演劇人や音楽家たちと交流した。冥の会などで不条理演劇やギリシア悲劇を上演[2]しつつ、「世阿弥伝書研究会」で、世阿弥の能芸論を軸に、能の本質を問い続けた著作を残しており、遺著で代表作「心より心に伝ふる花」は多く再版された。「昭和の世阿弥」と言われる。[3]
人物年表
編集- 1929年(4歳)仕舞「猩々」で初舞台
- 1932年(7歳)初シテで「経正」を舞う
- 1940年(15歳)慶應義塾普通部中退、「巴」で初めて能面をつけて舞う
- 1942年(17歳)横道萬里雄と知る
- 1944年(19歳)清寿と名乗る。「道成寺」を演能。
- 1946年(21歳)第一回銕仙会研究会
- 1949年(24歳)「伝統芸術の会」発足、寿夫に名を戻す
- 1950年(25歳)「能楽ルネッサンスの会」に参加
- 1953年(28歳)栄夫、静夫と「華の会」を作る。布施浩子と結婚(1958年離婚)
- 1954年(29歳)ヴェネツィアの国際演劇祭に能が初参加
- 1955年(30歳)武智鉄二の演出でシェーンベルクのマイム「月に憑かれたピエロ」に出演
- 1956年(31歳)青山の「銕仙会舞台」落成、舞台披き公演を行う
- 1959年(34歳)観世華雪(伯父)死去
- 1960年(35歳)草月アートシアターにて草月コンテンポラリーを作舞・出演
- 1962年(37歳)フランス政府招聘留学生として渡仏、ジャン=ルイ・バローに学ぶ
- 1964年(39歳)福島愛子と結婚(1968年離婚)
- 1969年(44歳)女優の関弘子と結婚
- 1970年(45歳)現代劇との交流を実践する「冥の会」結成、代表となる
- 1971年(46歳)冥の会第一回公演、観世栄夫演出「オイディプース王」で主演
- 1972年(47歳)冥の会、渡邊守章訳・演出「アガメムノーン」に出演、世界演劇祭「国際演劇会議」に出席。ヨーロッパ各地で演能。
- 1973年(48歳)冥の会、サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」に出演。
- 1974年(49歳)冥の会、鈴木忠志演出「トロイアの女」に出演、芸術祭優秀賞受賞。
- 1976年(51歳)ヨーロッパ各地で演能。モービル音楽賞(邦楽部門)受賞。
- 1977年(52歳)日仏演劇協会主催のシンポジウム「演劇の作業の根拠」で、来日したジャン=ルイ・バローと演技論を交した。
関連文献
編集著書
編集- 「心より心に伝ふる花」(白水社、1979、白水Uブックス、1991、角川ソフィア文庫、2008)
- 「観世寿夫著作集」全4巻(平凡社、1980-81、復刊1998) 、横道萬里雄ほか編
- 1.世阿弥の世界、2.仮面の演技、3.伝統と現代、4.能役者の周辺
- 「観世寿夫 世阿弥を読む」(荻原達子編、平凡社ライブラリー、2001)
追悼出版ほか
編集DVD
編集- 能楽名演集 「井筒」観世流 観世寿夫、宝生閑、NHKエンタープライズ
- 能楽名演集 能『俊寛』 能『猩々乱』/観世流 観世寿夫、NHKエンタープライズ