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覆面座談会事件(ふくめんざだんかいじけん)は、1968年年末、『SFマガジン』誌上の匿名座談会によって日本SF作家クラブの内部に亀裂が生じた事件。

1950年に日本の推理小説界を震撼させた、『新青年』における抜打座談会事件のSF版と呼ばれることもある。

経緯

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1968年12月25日発売の『SFマガジン』69年2月号に「覆面座談会 日本のSF '68~'69」が掲載された。その内容は、評論家石川喬司・翻訳家稲葉明雄及び伊藤典夫、そして『マガジン』編集長・福島正実と副編集長・森優(南山宏の本名)の5人の出席者がA~Eの匿名に隠れて[1]、当時の日本のSF作家たちを遠慮なく批評するものだった。俎上に上せられた作家たちの名は、以下の通りである(座談会の小見出しに拠る)。

出席者の発言は、たとえば小松に関しては

B 「小松左京の場合は一口でいうと、(筒井に対して)仏つくって魂入れずというところがある」
D 「でも、両者(『継ぐのは誰か?』・『見知らぬ明日』)に共通してるのは、小松左京の初期の良さというかナイーヴさというか、それがなくなってることだね。小説としてはむしろ退化してる。データをあんまり生まのまま放り出しすぎるよ」

筒井に関しては

B 「筒井の方は、(小松に対して)葭のズイから天井のぞく[2]……(笑)今までの作家はどちらかといえばこの後者の方だった。彼の特長は、現実における自己の存在に対する自意識が稀薄なところだ。だからこそ、へんな軽薄さの魅力が出てかえって一般受けするところがある。だから、彼が大人になっちゃって軽薄さがなくなると、どうなるか」
A 「直木賞候補になった『アフリカの爆弾』なんかはそれがたしかに弱みになってる。あれはどうも、小松左京のやってることを、筒井スラプスティックにしたかったんじゃないかと思われる節があるけど、そういう形にすれば誰でも喜んでくれる、面白がってくれると高をくくってる感じでね。ところが、話の流れがどう流れていくか、読者にはみんな判っちゃうから、面白くも何ともない」
D 「いま彼が書いてるようなものは、きっと、あまり残らないと思うな。いまの時代に受けるだけで、彼の安直さ、人生すべてスラプスティックという見方じたい、あれはじつは、彼の逃避にすぎないんだ。しかも、彼は自分でそれを知っていて平気なんだ。そこがイヤだな」
A 「(筒井が短篇小説「公共伏魔殿」「堕地獄仏法」の中で諷刺した)あのNHKといい創価学会といい、一見大胆に見えるんだけど、実はかなり手前に限界があって、この辺までならまあ大して問題にはなるまいという高をくくりたくなるんじゃないかな。その証拠にどの作品にも必ず韜晦があって、致命傷を相手に与えることは決してない」
C 「『時代と寝ている』というか『時代に踊らされている』ところは多分にあるね。『幻想の未来』で持ってた貞操を時代という深情けの年増にとられたんだな(笑)」
A 「それはやっぱり彼の方にも好き心があったからだよ(笑)チョイトといわれたとたんにアイヨって行っちゃったんだ」

豊田に関しては

B 「通俗の極みだよ。何とかでゴザルといえば時代が出ると思ってる。(笑)」
D 「文章にあまり品のないところは小松左京に似てる」
B 「層の薄いところへこんな人がいると、全体の株を下げるんじゃないか」
D 「アイデアがあまり簡単に出て来ちゃうのは直ってないな、思いつき的で」
B 「それがまた既成のアイデアだ。仲間が書いた作品にヒントを得て、すぐ書く。あれはいかんね。オリジナリティがあるのかしら」

などといった具合であった。これらの発言が、この座談会でこき下ろされたSF作家たちの間に激しい反撥を呼んだ。

なお、匿名だった座談会の出席者は稲葉明雄を除いて、『SFマガジン』の発売直後に名乗り出て、遺憾の意を表明したという[3]

波紋

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この会話内容にショックを受けた星・小松・筒井・平井・豊田らは、熱海にある文藝春秋の寮で善後策を協議した。

星は「飼い犬に手を噛まれるという話はあるが、この場合は、飼い主のほうが、犬の尻に噛みついたようなものだな」[4]と皮肉った。小松は『SFマガジン』編集部に抗議文を寄せ、匿名に隠れて他人を批判する行為を闇討ちにたとえて非難。特にB(稲葉明雄)の発言を「"新しい文学"たりうるはずのSFを、まことに趣味的ディレッタント(好事家)的な"好ききらい"の態度で判定しようとする」ものとして批判した。平井は1969年3月に同人誌「サイレント・スター」誌上でこの座談会のパロディ『S・S22号評 ミスターX達との座談会』を発表した[5]。福島と親交が深かった矢野徹は『SFマガジン』1969年5月号に架空匿名座談会「SF界に新風よ吹け!」を発表した。同時に、福島と絶縁し批判文を発表した豊田をたしなめ、小松たちと福島たちの間に生じた亀裂を埋めようとした。

これに対して福島は、日本のSFに対する真正面からの批評の必要性を頑強に主張。『SFマガジン』1969年6月号に山野浩一の評論「日本のSFの原点と志向」を載せ、日本のSFの閉鎖的状況に対する批判を山野に代弁させた。最終的に福島は、この事件の責任を取る形で早川書房を退社。『SFマガジン』1969年8月号に退社の挨拶文「それでは一応さようなら」を発表し、「批評を嫌い、批判されたことを恨み、未練がましくあげつらう精神で、いったいなぜ、SFが書けるか。多少の批評をされたからというので、気落ちして書けなくなるような、そんな女々しい人間は、もともとものを書くべきではなかった。そんな弱々しい作家は、消えてなくなればいいのです」と一方的に作家たちを非難した。福島が独立した際の励ます会には、座談会で槍玉に挙げられた作家のほとんどが欠席した[6]

豊田は1976年から『奇想天外』誌上で連載開始したエッセイ「あなたもSF作家になれるわけではない」(完結後の1979年11月に単行本化)でこの事件に触れ、最後まで名乗り出なかった稲葉明雄をIのイニシャルで批判し、この連載がきっかけとなって稲葉は名乗り出ることになった。

福島が設立した少年文芸作家クラブ(現・創作集団プロミネンス)には多くのSF作家が参加していたが、この事件を機にほとんどが退会。残ったSF作家は光瀬龍、眉村卓、南山宏らに限られた[7]

福島はのち1976年に死去。筒井康隆は当時のことを振り返り、覆面座談会以降『SFマガジン』とは絶縁状態が続いたが、副編集長の森優に特に乞われて『脱走と追跡のサンバ』は連載した、しかし短篇はほとんど書かなかったと述べている[8]。また「福島氏はやがて早川書房を退社し、数年後に喉頭ガンで急逝するが、仲直りすることはなかった」[8]とも述べている。大方のSF作家は生前の福島の功績を称えているが[9][10]、筒井康隆など一部のSF作家たちの間では福島への感情的なしこりを残す形になった。1979年に光文社から『SF宝石』が発刊された時には、編集長の谷口尚規が関西在住の作家を訪ねた折、福島の知人であることを何気なく知らせたばかりに門前払いを受け、一部の作家たちから執筆拒否を受けたこともある[11]

脚注

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  1. ^ 並び順は最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社2007年)p391による。一方、平井和正は『夜にかかる虹 上巻』92頁で
    • A=福島正実
    • B=稲葉明雄
    • C=石川喬司
    • D=森優
    • E=伊藤典夫
    としている。
  2. ^ 江戸いろはかるたに由来することわざで、細い葦の茎の管を通して天井を見て、それで天井の全体を見たと思い込むこと。自分の狭い見識に基づいて、勝手に判断することの喩え
  3. ^ 豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年、p.103
  4. ^ ―寄せ書き― 豊田有恒「星新一の不思議」星新一公式
  5. ^ 平井和正『夜にかかる虹 上巻』リム出版、1990年、p.87-p.93
  6. ^ 豊田『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年、p.54
  7. ^ 立川ゆかり「是空の作家・光瀬龍 連載第18回」『S-Fマガジン』2013年7月号、p.155
  8. ^ a b 『筒井康隆漫画全集』172頁
  9. ^ 小松左京『小松左京のSFセミナー』集英社文庫、1982年、p.106
  10. ^ 平井和正「掘り出した狼通信 24号」『ウルフの神話』徳間書店、1986年、p.38-p.39
  11. ^ 宮田昇『戦後「翻訳」風雲録 翻訳者が神々だった時代』本の雑誌社、2000年、p138 ISBN 4-938463-88-1

参考文献

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  • 豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』徳間書店、1979年
  • 豊田有恒『退魔戦記』(立風書房、1969年)
  • 豊田有恒『自殺コンサルタント』あとがき(三一書房、1969年)
  • 福島正実「特別日記」(早川書房『SFマガジン』1969年12月号所載)
  • 豊田有恒「福島氏に答える」(早川書房『SFマガジン』1970年1月号所載)
  • 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社2007年ISBN 410459802X
  • 巽孝之『日本SF論争史』勁草書房、2000年

関連項目

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